窪塚洋介が明かす激動の20代と現在の思い

 雑誌のインタビューは、取材対象者がなんらかのプロモーション中であることが多い。だが、今回の窪塚洋介には一切の宣伝案件がないという。なにを聞いてもOK、究極のNGなし。変わっている。

 思えば、窪塚洋介は昔から“普通”ではなかった。史上最年少での日本アカデミー最優秀主演男優賞獲得、自宅マンション(9階!)転落事故から奇跡の復活。レゲエアーティストとして地道に活動していたかと思えば、ハリウッド映画に出演し、SNSでの奔放な言動で飄然と炎上させもする。人間・窪塚洋介、そのど真ん中にあるものとは?

◆いちいち人が言うことなんか気にして生きてらんない

――インスタグラムでの投稿などで世間をざわつかせることもある窪塚さんですが、炎上中の本人は、どのような精神状態なのでしょうか?

窪塚:称賛と情熱と冷静の間、ですかね。この間も徳島県でマスクをしないで人と会っているところをポストしたら久しぶりに炎上して。もう燃えかすしか残っていないと思ってたんですけど、あ、俺まだ炎上するんだと思って(笑)。余談ですけど、一時期SNSではやった、「ロバと老夫婦」の話って知ってます?

――いいえ。教えてください。

窪塚:おじいちゃんがロバに乗って、自分の足で歩いているおばあちゃんと並走していると「おばあさんがかわいそうだ」と文句を言う人がいる。「そうか」っておばあさんを乗せて歩いていると「けしからん女だ」と怒る人がいる。ふたりで乗っても「ロバがかわいそう」となるし、ふたりで歩いていると「ロバの使い方も知らないのか!」ってパターンもあって。

 これって結局、正解なんてなくて自分が思ったように生きろよってことだと思うんですよ。マスクのことに関しては、たとえ建前だとしても公共の場ではしています。でも、いちいち人が言うことを気にして生きてらんないし、そんな言葉がなんぼのもんじゃいという気持ちもやっぱりあって。

◆20代の前半はもうちょっとナイーブだった

――我が道をいくスタイルは、若いときから確立されていましたか?

窪塚:いやぁ、20代の前半とかはもうちょっとナイーブだったんで(笑)。あるひと言に対して3か月ぐらい気にしたりしていましたし。

――『東京新聞』に掲載された家族にまつわるインタビューも話題になりました。バツイチの窪塚さんは元の奥様との間に長男がいて、でも、現在の奥様と元の奥様が仲良くて、長男は現在の奥様のことも「お母さん」と呼ぶ、と。どうすれば、そんな関係性が築けるのですか?

窪塚:いやいや、前の妻と今の妻が仲良くなるのはやっぱり大変でしたよ。今の妻はわりと物わかりがいい人で、俺が前の妻にはなんの未練もなくて長男のためにリンクしていることも腑に落ちるのが早かった。でも、前の妻はけっこう宇宙人タイプなんで(笑)。

 だからふたりが仲良くなれるようにやれることはやって、前の妻にちゃんと生活費を渡すとか当たり前のことも全部やって「これ以上はもう無理!」ってときに、台湾で仕事だったんです。台湾での俺、毎日祈ってましたからね。そしたら、なぜかその頃から、ふっと前の妻がやわらかくなってくれて。あれは御神力みたいな状態だったんですよ、マジで(笑)。

◆“奇跡の生還”にも意味なんて感じない

――神がかっているといえば、25歳のとき、マンション9階からの転落事故でも命を落としませんでした。生かされている人生に、意味を見いだしたりはするものでしょうか?

窪塚:そうやって言ってもらうことは多いです。けど、落ちちゃったあとがすごい地味だったりするんで。たとえば、マンションから落ちたことで覚醒して空が飛べるようになったなら、人生の意味を感じやすいじゃないですか。そうじゃなくて、めっちゃ地味なんですよ、人間が回復するまでのリハビリって。

――リアルな言葉です。そもそも体の痛みがあるわけですもんね?

窪塚:痛いっすね。痛すぎて痛くないぐらい痛い(笑)。だから、もし意味を持たせるとしたなら、そのあとの自分の生き方だったり、そういうことでしかないと思う。

――今振り返ってその頃一番考えていたことはなんですか?

窪塚:背負っちゃってるなぁって。「え? 俺、飛んじゃったの?」というぐらい自覚がなくて、寝て起きたらケガをしてた、みたいな感じだったんですよ。ドラッグをやっていたとかも本当になかったので、本人的には「治すしかない」ってあっけらからんとしていて。でも社会的には“転落”とか“ぶっ飛んじゃったヤツ”というイメージがついちゃって、それを背負わされて。だから、その頃にレゲエミュージックがあってよかったなぁと心底思いましたね。

――卍LINEとしての活動ですね。レゲエへの感謝や敬意は各所で語られている一方で、テレビの仕事には否定的な思いが強かったのですか?

窪塚:20代前半の頃、メディアにむちゃくちゃにされてたんで。毎日公開レイプされてたみたいな感じでしたから。たとえば、テレビのインタビューを受けてしゃべると前後の脈略なくパートで抜かれて、しかも組み替えられて、よくわかんない音楽をのっけられて放送されちゃうことが頻繁にあったんですよ。テレビのなかの世界全体に不信感があったから、マンションから落ちたあと、陳腐な言い方ですけど『月9』のオファーをもらったりもしたんですけど、絶対にやらないと。だったら、コンビニでバイトしたほうがいいやって。

――ナイーブだった青年・窪塚洋介にとっては、傷つく体験だったんですね?

窪塚:当時は。でも、あんまり悲観的な出来事だとは思ってないんです。そういう出来事がマンションから落ちたことのトリガーでもまったくないので。あの頃は、あまりにもむちゃくちゃにされすぎて途中でアンテナが折れて、鈍感になれたんですよ。周りを気にしてばっかりいたら自分の道を歩けない、鈍感でいいやって。だから、メディアにボコボコにされたおかげで逆に強くなれたと思うんですよね。

◆もう役者をやめてもいいと思うくらい幸せだった

――5回死にそうになったとか?

窪塚:頭ばっか打つんですよ。沖永良部島でそこそこの高さの堤防からぴょんって跳んで降りたら、下が全部苔で。全部が苔すぎてその色のコンクリートだと思ったんですよ。で、ツルーンって。脳天からバーンって落ちたらピリーッてなって。一緒にいた連れは爆笑してたらしいんですけど、こっちは走馬灯がバーッて浮かんできて。卍LINEのライブでも超泥酔してかなり高いステージから落ちて、頭打ってすげぇ血が出ちゃったり。

――そこまでお聞きすると、オーディションで勝ち取ったマーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』出演は、窪塚さんの人生に“意味を持たせた”大きな出来事だったのではと想像しました。

窪塚:そうなんです。報われたというか。大好きな監督だったので、いまだにドッキリだったのかなと思うし。撮影で半年間台湾にいたんですけど、幸せな時間でした。前の妻と今の妻のことを毎日祈っていたのがこの映画の撮影の頃で。ただ、『沈黙-サイレンス-』の経験が幸せすぎて、正直、やめてもいいかなって思ったんです。

――役者の仕事をですか?

窪塚:はい。一回、ゴールみたいな。もちろん、通過点なんですけど、今もハングリーさみたいなものは失っているのかもしれない。この間も海外の映画のオーディションに来ないかって誘われたんですよ。話を聞くと、行って2週間隔離されて1年間拘束される。ホテルと現場の往復はOK。でも、オフの日もホテルから出られない。1年間もですよ!? で、オーディションに来いって。「行かねぇよ!」って。それを映画監督の堤幸彦さんに話したら「行けよ!」って。いや、別に決まったわけじゃなくてオーディションだからと言い返したんですけど「俺なら絶対行くよ!」と。

――海外作品といえば、『GIRI/HAJI』というBBC制作のドラマへの出演も話題になりました。

窪塚:ありがとうございます。

――同作も『沈黙-サイレンス-』も、役柄との相乗効果もあって、マンションから落ちた時の額の傷が印象的でした。でも、本人としては傷を隠したい時期もあったのでしょうか?

窪塚:逆に聞かれるんですよ。雑誌の撮影などで「傷を修正しますか?」って。その場合、「ありがとうございます。でも、僕は気にしていないから、もしそちらが気になるようだったら修正してください」と答えますね。自分から「修正してくれ」とは絶対に言わないです。役者としても、ハンデといえばハンデだけど、味といえば味だし。役柄によってはマイナスかもしれないけど、もしそれで演じきれなかったのなら、俺がそれまでの男だなって話で。

――強いですね?

窪塚:いやぁ、どうすっかね。

◆ネガティブな事象は、もっとよくなるためのパスポート

――では、窪塚洋介自身の分析による窪塚洋介の才能とは?

窪塚:ありがたいと思って生きることと、バランスが悪くて落ちてしまったことを糧に得たバランス感覚。

――ありがたいと思って生きるとはどういうことですか?

窪塚:人生の名言を数多く残しているスティーブ・ジョブズの域にはたどりつけてないけど、全部がプレゼントみたいなものだと思うんです。メディアにボコボコにされたことによって強くなれたことも、今のコロナだってそうだと思う。僕の仲間でも会社がつぶれちゃったけど「久しぶりに母親とゆっくり話せたよ」と笑ってるヤツもいて。「よくよく考えたら銀行にカネを返すために毎日働いてたんだなぁ」とも言っていて、そこからは解放されたんですって。

 ネガティブな事象は、もっとよくなるためのパスポートと思えるかどうか。もし、そういうことをみんなが実践できたら、僕が役者として賞を獲ったり、音楽でミリオンセールを出すことよりも、はるかにすごいことだと思うんですよ。ま、僕は、音楽でミリオンセールなんて出したことがないんですけど(笑)。

【Yosuke Kubozuka】

’79年、神奈川県横須賀市生まれ。’95年にデビュー。’01年、映画『GO』に主演し、史上最年少で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞。’17年に映画『沈黙-サイレンス-』でハリウッドデビュー。’20年から、自身の番組『今をよくするTV』をYouTubeにて配信中

取材・文/唐澤和也 撮影/寺川真嗣

※4月27日発売の週刊SPA!インタビュー連載『エッジな人々』より

2021/5/9 15:52

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