家族も婚約者も裏切り、道ならぬ恋を貫いたけれど…。現実に引き戻された女の悲しい末路
かつて好きだった彼との再会。その思いが再燃してしまった時、人は恋心を抑えることができるのだろうか。
堰を切ったように溢れ出す感情。恋人も家族も敵にまわして貫く恋。
「ねえ。私たち、出逢わなければよかった…?」
安定した未来を捨ててまで燃え上がってしまった、恋の行方とは。
◆これまでのあらすじ
婚約者である信也を裏切り、かつて好きだった家庭教師・健太郎と結ばれた菜々子。だが待ち受けていたのは、想像以上の不安と孤独感だった。
さらに健太郎の態度にイライラを募らせた菜々子は、ついに彼の家を飛び出してしまい…?
▶前回:「一晩中、彼はなぜかベッドに入ってこなくて…」翌朝のリビングで、女が見てしまった光景
「…菜々子です。開けてください」
21時。しとしとと降ってきた雨にさらされながら、菜々子は実家のインターホンを押す。
玄関の鍵を開けて入ろうとしたところ、ガンっと大きな音がして行く手を阻まれた。どうやら、ドアガードが掛けられているらしい。
― 私が帰ってくるなんて、望んでもいないんだろうな。
この家を出て行ってから2週間以上経つ。両親が菜々子の帰りを待たなくなったのも無理はないだろう。
2回目のインターホンを鳴らそうとしたとき。玄関の外灯にパッと明かりがつき、薄く開いたドアから母が顔をのぞかせた。
「ちょっと、何やってるの」
母はしばし絶句したが、すぐにドアを開けてくれた。
「ごめんなさい…」
短時間とはいえ、雨に打たれていたのでひどく寒い。菜々子がガタガタと震えながら玄関に入ると、床にポタポタと雨水がこぼれ落ちる。
「とりあえずタオル持ってくるから、待ってなさい」
母がバタバタと走っていく姿。玄関に置かれた花。それらをぼんやり眺めていると、視界が突如真っ暗になった。
いったい菜々子に何があったのか…?
熱に浮かされていた
「体調はどう?大丈夫?」
翌朝。うっすらと目を開けると、母が心配そうな顔をしながら手を握りしめていた。
― 私、いったい…?
周りを見渡した菜々子は、実家のベッドで寝かされていることに気づいた。
昨晩帰ってきてからの記憶がない。おぼろげに思い出せるのは、雨が降る中、玄関の前で立ち尽くす自分の姿だけだ。
すると母が「熱はどう?下がったかしら」と、額に手を当ててきた。
「熱…?」
「玄関で突然倒れて驚いたわよ、すごい熱だったんだから。…少し下がったみたいだけど、今日は休んで寝てなさい。何か飲み物でも持ってくるから、今のうちに会社へ連絡したら」
そういうと母は、階段を下りて行ってしまった。
― 私、熱があったんだ。
ゆっくりと身体を起こすと、この時期にはふさわしくないほど大量の毛布が掛けられていた。枕元には氷枕が置かれている。
それらを眺めていると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
勝手に出て行き、何の前触れもなく帰宅した娘。言いたいことは山ほどあったはず。それでも一晩中看病してくれたのだ。母には頭が上がらない。
業務用スマホを取り出した菜々子は、今日の予定を改めて確認する。だが幸か不幸か、今はプロジェクトも外されているから急ぎの用事などなかった。
社内LINEで、部長に休暇の連絡を入れる。するとすぐに既読がつき『了解』とだけ返ってきた。
『おはよう』も『お大事に』もない。無駄なことを嫌う、部長らしい返答だった。だけど今日ばかりは、その素っ気なさがどうも引っかかってしまう。
― 別に、私なんかいなくたって問題ないんだろうな。
自暴自棄になりながら再びベッドに潜り込むと、キツく目を閉じた。
「熱に浮かされてたみたいね」
それからしばらくして栄養ドリンクを持ってきた母は、こんなことを口にした。その言葉に、菜々子は息が止まりそうになる。
「えっ…?」
健太郎との関係を言っているのだろうか。だがそれは、思い違いだったようだ。
「昨日の夜、寝言で訳のわからないことを言ってたわよ。…突然帰ってきて倒れ込んで、まったく人騒がせな娘だわ」
毛布をかけ直しながら、母が続ける。
「とりあえず寝てなさい。悪いけど、今日はちょっと出かけないといけないのよ」
そう言った母に、菜々子は「悪いのは私…」と首を振る。すべて自分が悪いのだ。どういうわけか、今日は何気なく言われた言葉がやけに引っかかってしまう。
「ごめん…」
なんだか居たたまれなくなり、ボソッと言う。すると母は「本当にね」とため息をついて続けた。
「言いたいことも聞きたいことも山ほどあるけど、病人には強く言えないわよ。…早く治してちょうだい。お腹すいたときのために、お粥作っておいたから」
それだけ言うと、母は部屋を出て行ってしまった。
― 熱に浮かされてたみたいね。訳の分からないことを言ってたわよ。
ガランと静かな部屋。その言葉だけが、何度も菜々子の脳内に響いていた。
熱が冷めた菜々子。その先に待っていたのは…?
嫌な感覚
― なんか、この感じ…。
目を覚ました菜々子は、全身に倦怠感を覚えた。
時刻は15時。
疲れが出たのか、朝一度起きてから再びベッドに入って、かれこれ6時間以上も寝続けていた。なんとなく、熱も下がっている気がする。
昨日からずっと眠り続けたのだ。身体も頭もスッキリすると思っていたが、そんなことはなかった。
熱に浮かされた後、全身に嫌な感じが残る。その感覚が悔しくも健太郎との情事と重なると、菜々子は思った。
「私、どうかしていたんだ…」
恋が終わった今、冷静になってみるとすべてがバカらしく思えた。完全に正気を失っていたと気づく。後悔しても仕方ないことなど百も承知だ。だが、今の菜々子には後悔しかなかった。
失ったもの。婚約者、家族や会社からの信頼…。数えきれないほどある。
では、何か得たものがあるのだろうか。残念ながら、何ひとつなかった。
身を滅ぼすような恋愛。小説を読んでそんな響きに憧れたこともあったが、実際に身を滅ぼした今ならわかる。現実は、そんなに甘くない。
周囲を敵に回して傷つけるような恋の先に、幸せなど待っていないのだ。
「バカみたい」
菜々子の目から、涙が溢れ出た。
◆
実家に戻って2週間。健太郎からは何の連絡もなかった。
『残してきた荷物を送ってください』
そうメッセージを送ったところ、彼から返信は無かったが、後日荷物が送られてきた。
手紙のひとつもなく、荷物がただ段ボールに突っ込まれている。そのぞんざいな扱いは、まるで菜々子への気持ちを表しているようだった。
「健太郎さんにとって、私って何だったんだろう…」
荷物を取り出しながら、自嘲気味に笑う。
「菜々子を守る」
「菜々子を愛してる」
あのときの言葉を思い出すと、今でも胸の奥がキュッとなる。だが、彼はどこまで本気だったのだろうか。
もしかしたら口からついて出た言葉だったのかもしれない。冗談だったのかもしれない。
― でも結局は、私の責任なんだもの。
婚約破棄したのも自分。周囲を敵に回したのも自分。誰のせいにもすることなどできない。菜々子は、恋愛の“負の側面”を痛感したのだった。
◆
そうして健太郎と別れてから、しばらくの時間が経った。結局菜々子は父と母に頭を下げて実家に戻り、転職することなく仕事を続けている。
徐々に“普通の生活”や“平常な自分”を取り戻しつつあるが、ふとした瞬間に考えてしまうのだ。
― 健太郎さんと出逢わなかったら…。
今ごろ信也と幸せに暮らしていたのだろうか。仕事もプライベートも充実していたのだろうか。
でももう、すべてがあとの祭りだ。
「恋愛で身を滅ぼすなんて…」
情けない、愚かなこと。
しかし。
“優等生”として真面目にやってきた自分の新たな一面に、菜々子は驚いてもいたのだった。
Fin.
▶前回:「一晩中、彼はなぜかベッドに入ってこなくて…」翌朝のリビングで、女が見てしまった光景
