“野菜の洗い方が分からない”28歳女に、後輩男子がかけた衝撃の言葉とは
PR会社で多忙を極める28歳の綿谷あんな。掃除ができず、散らかった部屋に帰りたくないので、求愛してくるいろんな男のもとを毎晩泊まり歩く。
母親の“呪い”に、乱れた生活。そして歪んだ自尊心…。
これは、そんな女が立ち直っていくストーリーだ。
◆これまでのあらすじ
久々に会った母親から存在を否定された気持ちになったあんな。無意識のうちに電話をかけた相手は、後輩男子の祥吾だった。
▶前回:容姿に触れ、怒鳴るモンスタークライアント。「聞き分けのいい女」を演じた代償とは
母親とのランチで自尊心をボロボロにされて、心がじくじくと痛んでいる。普段だったら自分を肯定してくれる男たちに連絡を取っていた。だがそのとき蘇ったのは、祥吾の顔だった。
『急にどうしたんですか?』
呼び出し音の後、少し驚いたような祥吾の声にあんなは我に返った。何も考えずに電話していたが、祥吾との仲は特に深いわけではない。
「あ、えっと、ごめんね。急に電話して…」
思わず下手に出てしまう。異性との電話で、こんなに余裕を保てないのは初めてだった。連絡の理由を必死で探し「そうだ」と声を弾ませる。
「も、もしよかったら料理を教えてもらえないかなって」
◆
あんなはマンションの前で立ち尽くしていた。新宿の端、豊島区の境界線に位置する落合南長崎。この場所に来たのは今日で2回目だ。
男の部屋へ行くのに、こんなに緊張するなんて。あんなは右手のバッグの持ち手を握る。
いつも持っているステラマッカートニーのファラベラではなくて、ナイロン製のエコバッグだ。それがさらに心細さを煽り立てる。
「なんでこんなことに…」
確か1か月前にも、この場所で全く同じ言葉を口にした。そんなことを考えながらLINEを開き、送られてきた部屋番号をもう一度確認する。
どきどきと緊張しながら、一度息を吐いてオートロックの呼び出しボタンを押した。
『はーい』
張り詰めた心から空気が抜けるようなのんびりとした声がロビーに響いて、自然と頬が緩んだ。電話のときから、祥吾のこの声に、あんなは気づけば癒されていた。
料理を教えてもらうことで、祥吾との仲は進展する?
「すみません、食材買ってきてもらっちゃって」
「ううん、全然。むしろ、ちゃんと買えてるか不安…」
祥吾に渡したエコバッグに視線を向け、あんなは口ごもった。
「あのね、先に言っておくんだけど…。私、自炊したことがないの」
学生時代は実家で母親の料理を食べていたし、社会人になってからは外食や弁当で済ませてきた。バッグから食材を出していた祥吾は、底に入っていたレシートを見つけて取り出した。
「…おー、成城石井で買ってきたんですね」
僅かに目を丸くする祥吾に、不安が増す。
「大丈夫かな…?」
「大丈夫です。余すことなく使い切りましょう」
祥吾は頷き、ベージュのエプロンをあんなに差し出した。
「よかったら着けてください。せっかく可愛い服なのに、汚れちゃうともったいないんで」
可愛い服…。そういえば今日は、母親の好みに合わせて小花柄のふんわりとした清楚なワンピースを着ていた。会社での装いとは、真逆の服装だ。これではまるで祥吾を意識しているようではないか。
「浅霧くん」
ここはあえて、余裕を見せつけたほうがいいのでは…。混乱する頭で導いた結論に、あんなは手を洗う祥吾の背中に呼びかけた。
「私は全然、気にしてないし、自分から来たいって言っておいてアレなんだけど…。女性を部屋にあげてなんかこう、ドキドキとかしないの?」
祥吾は「前にも言いましたけど」とハンドソープを泡立てながら続けた。
「綿谷さんって僕の姉と同い年だし、ちょっと似てるんですよね。だから全く変な気起きないんで安心してください」
きゅ、と蛇口を捻って振り向いた祥吾は分厚い黒縁の眼鏡をかけて、湿気に髪がうねっている。そんな垢ぬけない彼の、“女性として意識していない”宣言。
「だよねー…」
ショックを受けてしまったのは、プライドが傷ついたからってだけ…。そう自分に言い聞かせながらあんなは笑ったが、手を洗うために祥吾に背を向けると、思わず深い溜息が漏れた。
「えっと、じゃあ基本的なものからやってみましょうか」
祥吾はそんな様子を気に留める素振りもなく、鍋とまな板を取り出した。
「味噌汁と常備菜でいいですか?」
そう、私は料理を習いに来たんだ。せっかく真面目に教えてくれているのに、邪念を抱いていたら失礼だろう。「お願いします」と頭を下げると、祥吾はまな板の上に包丁とピーラーを置いた。
「じゃあ前にお出しした大根と玉ねぎの味噌汁と、きんぴらごぼうにしましょう。まずは大根を切って、皮をむいてください」
「…」
切るって、どんな感じに切ればいいんだろう…?あんなは必死で味噌汁に入っていた形を思い返す。4分の1くらいのサイズで、結構薄く切られていた気がするが…。
ぎこちない仕草で包丁を握り、大根に振り下ろそうとすると「あ、ストップ」と制止された。
「すみません。言い忘れてたんですけど、最初に洗ってください」
「そ、そうだよね…」
恥ずかしさに、かあっと赤面する。そして洗うと言われても、どのくらい洗えばいいかわからない。とりあえず手のひらでひたすらごしごしと擦ってみる。
数十秒続けていると「もう大丈夫です」と声をかけられた。
「切り方は分かりますか?」
「…ごめん、教えてもらってもいい?」
「もちろんです」
このくらいの幅で切って…と分かりやすく示す祥吾に、あんなは体を縮めた。
「申し訳ないな…。こんな、料理する以前のところから教えてもらわなきゃいけなくて」
恥じ入るあんなに、祥吾がかけた意外な言葉とは
詫びる声が、自然と小さくなる。最後に料理をしたのは、母親にうどんを作ったとき。「こんなの食べられない」と拒まれてから、キッチンに立っていなかった。
「いや、野菜切るところから料理は始まってますから」
祥吾は首を横に振り、軽い調子で言った。
「というか、野菜を切るのが料理の工程で一番大変で手間のかかるところだと僕は思っています。それに…」
そう話す言葉が途切れたので手を止めて振り向くと、祥吾は少しはにかんだように笑った。
「新入社員研修のとき、綿谷さんは何にも分かっていない僕に、すごく優しく丁寧に教えてくれたじゃないですか。それを真似しているだけなんで、申し訳ないなんて思わないでください」
あんなは、強張っていた肩の力が抜けていくのを感じた。目頭が熱くなり、慌てて唇を噛んで堪える。
これまで色んな男から「美人」だとか「愛している」とか、承認欲求を満たす言葉をもらってきた。だが、自分が与えたものを行動で返してもらったのは初めてだった。
― これが“本当に肯定される”ってことなのかも。
「浅霧くんって、人たらしだよね」
冗談めかして言うと、祥吾は「そうですかね」といつも通り飄々と返した。
◆
「で、できた…!」
味噌ときんぴらごぼうの、香ばしい匂い。かれこれ1時間近くかかったが、何とか形になった料理を前にすると感慨深い。
「米も炊けました。実食しましょう」
「え、浅霧くんも食べるの!?」
「当たり前じゃないですか。食べさせてくださいよー」
確かにここは彼の家で、今はちょうど夕食時だ。とはいえ祥吾の口に入るとなると不安でいっぱいになり、あんなは箸を握る彼の動きを緊張の面持ちで見つめる。
「…どう?」
きんぴらを咀嚼する祥吾におずおずと問うと、彼は大きく頷いた。
「めちゃくちゃおいしいです」
「よ、よかったー…」
あんなは手を合わせ、安堵に胸をなでおろした。こんなに嬉しかったことが、近年あっただろうか。頬を緩め、味噌汁を啜る。味噌と出汁がふわりと鼻腔を抜けて、玉ねぎも柔らかく煮えていた。
「うん、ちゃんとおいしい」
たかが味噌汁だと、同世代の女子には馬鹿にされるだろう。それでもこの挑戦は、大きな一歩だった。
「こんなにうまく作れると思わなかったよ。嬉しいな、本当にありがとう」
あんなはにこにこと声を弾ませる。こんなに明るい気持ちになったのは久々だった。少し幼くなったあんなの表情に、祥吾も思わずといった様子で笑みをこぼした。
「綿谷さん、可愛いですね」
ぴた、とあんなは箸を持つ手を止める。今、私のこと、可愛いって言った?
「…」
どんなつもりで?異性として意識してないんじゃなかったっけ?…動揺のあまり、様々な思いが脳裏を駆け巡る。どきどきしながら顔を上げると、祥吾は全く素知らぬ顔でご飯を口に運んでいた。
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女性として意識されていなかったはずなのに…。あんなの生活が一変する
