妻に内緒で別宅を持つ35歳男。女と密会後、待ち構えていた意外な人物とは
マサル@秘密の別宅
胸騒ぎがするのは満月のせいだろうか。
窓の外を呆然と眺めていると、マミが物憂げに呟いた。
「月が、綺麗ですね」
マミに導かれ、バルコニーに顔を出す。月明かりに照らされた彼女は寂しそうな表情をしている。
妻の出産を間近に控え、そろそろマミを切ろうと思っていたところだった。彼女の小さな体を包み込むように後ろから抱きしめ、二人で夜空を見つめた。
「はぁ、エモい…」
生暖かい夜風に包まれ、エモーショナルな気分に浸っていると…。そんな僕らを引き裂くように、スマホのバイブレーションが激しく響き渡った。
― リカだ…。
妻がこんな時間に電話をかけてくることは珍しく、得体の知れない胸の騒めきを感じた。
「マミごめん、なんか緊急事態っぽいから帰るわ。またな、おやすみ」
マンションを出てから電話を掛け直そうと思い、駆け足で外に出ると、エントランスの前に怪しげな黒のワンボックスカーが停車していた。
ドアが勢いよく開き、無精髭を生やした清潔感のない男が目の前に現れた。
「マサルさ〜ん。お疲れ様です!女と密会っすか?」
そいつのニヤついた顔を見た瞬間、虫酸が走った。
遂にマサルの悪行はバレるのか?声をかけてきた怪しげな男の正体とは?
見覚えのある顔だった。たぶん、週刊誌の記者だろう。
「ここ、誰のマンションなんすか?」
「僕の仕事部屋ですよ。妻が悪阻のときに一人になりたいって言いだして。それから仕事に集中したいときに使っているんですよ」
週刊誌の記者を無下に扱うと、酷い記事を書かれる可能性が上がるので、丁寧に対応するのが得策だ。
「リカさんとは順調なんですか?」
「ええ順調ですよ。出産間近でデリケートな時期なので、波風立てるのはやめてくださいね。張っても何も出てこないですから」
記者とやりとりをしている間も、リカから着信があった。この件について問い詰められるのだろうと思い、面倒になってスマホの電源を切った。
「こっちも商売なんでね、マサルさんとリカさんの動きは常に注目してますよ」
おねだりされたプレシャススキンのLady Diorをマミのためにオーダーしたばかりだし、何不自由ない生活を与えている。関係は良好で逆恨みの心配もない。
もちろん部屋の外で会ったこともないし、LINEで危険なやり取りもしていない。確固たる証拠は何もないはずだ。
「なんの証拠もないのにデタラメ書いたら名誉毀損で訴えますよ。金が欲しいなら喜んで買い取りますから、ちゃんと証拠揃えてから連絡してきてくださいよ」
僕がそういうと、記者はニヤついた顔をしたまま車の中へ戻った。
「なんだあいつ、気色悪いな…」
気分が悪くなった僕は、そのまま真っ直ぐに家に帰る気になれず、馴染みのバーで一杯ひっかけることにした。
個室の中で盛り上がっていると、突然ドアが開き、運転手の関根が息を切らして現れた。
「え、どうした?今日はもう帰ったんじゃなかったのか?」
「マサルさん!何やってるんですか…!ずっと連絡してたのに繋がらなくて、探し回りましたよ…。急いで、病院に行きましょう」
関根に腕を引かれ、店の前でハザードを焚いていた車に押し込まれた。
「なんだよ、病院ってなにごとだよ?」
「リカさん、突然陣痛が来て…、僕が病院に連れて行きました。それでもう、赤ちゃん産まれたみたいですよ…」
「まじかよ、早くない?予定日より全然前じゃん」
数時間前にリカから着信があったとき、僕はちょうどマミと密会していたところだった。
― まさか、陣痛を知らせるための着信だったなんて…。
タイミング悪く目の前に現れた記者を憎らしく思い、自分の保身のためにスマホの電源を切ってしまったことを後悔した。
しかし、それよりも子どもが産まれたという事実に胸が高鳴る。
「病院連れて行ってくれてありがとな。無事に産まれたならよかったよ。俺もいよいよパパになるのか〜♪」
「……マサルさん、なんでそんなに悠長に構えていられるんですか」
関根は一気にアクセルを踏み込んだ。バックミラーに映る彼の顔は強張っている。
「元々立ち会わない予定だったし、今から行けば丁度いい感じだろ」
「出産は命がけなんですよ。立ち会わないとしても、側にいてほしいものだと思いますけど」
普段は温厚で大人しい関根が感情的になっている。そういえば彼は、去年子どもが産まれて一児の父になっていたということを思い出した。
「関根って出産立ち会ったんだっけ?レスになんなかったの?」
「ならないですよ。感動して号泣しました。愛する人が大変な思いをしている姿を見て、レスになるなんておかしいですよ」
「……。あ、一旦家寄ってくんない?出産祝い買ってあるから、それ持って行きたくて」
リカは無事…?マサルが泣いてしまった理由とは
「あの、三枝です。妻は…?」
病院に到着し、看護師に声をかけると深刻な顔をされた。
「三枝さん…。元気な女の子が産まれましたよ。リカさんはお産の進行が早かったので出血が多く、輸血の処置をしてモニタリング中です」
「え…、輸血って…、大丈夫なんですかそれ…」
この時初めて“出産は命がけ”なのだということを実感した——。
InstagramやFacebookで知人の妊娠〜出産ポストを見かけることは多かったが、妊娠中はベビーシャワーというパーティを楽しんでいる映えた写真が上がるばかり。
出産後は、誰もが軽やかにお産のエピソードをつづり、そこには必ず健康そうな赤ちゃんと笑顔の夫婦の写真が添えられている。
正直いうと、働かなくてもいい妊娠期間は人生の夏休みだと思っていたし、妊娠・出産・育児は女の仕事だから、男の出る幕ではないと思っていた。
仕事で立ち会えないとか、レスを懸念して立ち会わないとか、自分の周りはそういう奴らばかりだったし、無痛分娩が主流なので壮絶なイメージはなかった。
自分の妻がまさかこんな事態に陥るなんて、夢にも思っていなかったのだ。
― リカが死んだら嫌だ…。
そう思うと、リカへの愛情が猛烈に湧き上がってきた。
― 愛してる…失いたくない…。
お金で何でも解決できると思っていたが、自分の無力さに打ちひしがれる。目頭がカッと熱くなり、一粒の涙が滴り落ちてきた。
― この俺が、泣いてんのかよ…。
マミとの関係は即刻清算することを胸に誓った——。
◆
待つこと2時間。
ようやくリカのいる個室へ案内された。扉を開けると、70平米もある広々とした豪華な空間が広がっていた。
「マーくん…」
青白く、やつれた顔をしているが、リカが見せた笑顔は何故か神々しく、輝いて見えた。
「無事で本当によかった…。リカは“強い女”だね」
「……」
「おめでとう。頑張ったね。これ、プレゼント」
これはクリスティーズで落札されたもので、ホワイトヒマラヤに10.5カラットのダイヤモンドをあしらい、ソリッドゴールドのハードウェアが付いた超レア物のバーキン。
香港在住の知り合いに口を利いてもらい、リカのために特別に入手した代物だ。
絶対に喜んでくれるはずだと思っていたのに、リカの顔はみるみるうちに曇っていった。
「…いらない」
「え?」
「いらない…。こんなプレゼントをくれるより、そばにいてくれた方が100倍嬉しいよ…」
リカの目から大粒の涙が溢れた。彼女の涙を見るのは、プロポーズの時ぶりだ。あの時の涙とは確実に種類は違うけれど。
「私、本当は強くなんかないよ…。すごく心細かった。怖かった。不安だった…。本当は一緒に立ち会って欲しかった。支えて欲しかった。手を繋いでて欲しかった…」
初めて本音を打ち明けられた気がした。心が揺さぶられ、目の奥から涙がにじみ出そうになる。
「リカ…、ごめん…。俺、全然支えてあげられてなかったよな…。でも、リカのこと本当に愛してるんだ…。だから、それだけはわかって欲しい」
リカを抱きしめ、ばれないように片手で涙拭った。
僕たちは、プライドが異常に高すぎた。
お互い強がりで、弱みを見せることができなかった。傷つくことを恐れ、壁を作って、心の中をさらけ出すことをしなかった。
今日からやっと、本当の意味で夫婦になれるような気がした。
「ねぇ、抱っこしてみる…?」
小さな命を抱え、その重みと温かさを実感したとき、心が浄化されるような感覚に襲われた。
― 心を入れ替えよう…。
そんな決意も込めて、健康な赤ちゃんと笑顔の夫婦の写真を、僕たちもInstagramにアップした。
そしてスマホを放り投げ、家族水入らずの時間を堪能した。
しかし、幸せな時間は束の間だった——。
それから数時間後、僕は騒動に気付くことになる。
『マサルさん、流出してる写真見ました…?』
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ようやく一つになった夫婦に亀裂が!?流出したのは一体誰の写真…?