長嶋茂雄、清原和博、松坂大輔…プロ野球界を震撼させた!「怪物ルーキー」驚愕伝説

 完全実力主義のプロの舞台で1年目から強豪選手を倒したレジェンドたち。球史に残る名手の若き日を振り返った!

 3月27日、開幕2戦目にしてプロ初本塁打を放った阪神のルーキー・佐藤輝明(22)。

「オープン戦でも12球団トップの6本塁打を放っていただけに、その潜在能力への期待は高かった。プロ初安打が初本塁打というのも、器の大きさを感じます。いきなり30本塁打を放って新人王というのも、十分にありえます」(全国紙運動部記者)

 ちなみに、ルーキーによるオープン戦での本塁打王は、かの長嶋茂雄以来の快挙。阪神の佐藤が「どこまでやれるか」は、ファン最大の関心事と言ってもいいだろう。

 しかし、球史を振り返ると佐藤以上の怪物ルーキーがズラリ。そこで今回は、球史に残る名選手のルーキーイヤーを大特集。「怪物」の系譜に連なるレジェンドたちの常人離れしたあまたの偉業を紹介していきたい。

 まずは野手から見ていこう。阪神・佐藤の目指すべき数字として避けては通れないのが、同じ大卒で29本塁打のミスターこと長嶋茂雄。そして、高卒ながら31本の新人最多本塁打記録を持つ清原和博の存在だ。清原とは、同じ一塁手として同じパ・リーグのロッテでプレーした愛甲猛氏が、当時を振り返る。

「高卒で、あれだけ完成していた選手は、後にも先にもキヨぐらい。ヘタな試行錯誤で、その後はどんどんおかしくなっちゃったけど、こと1年目に関しては、他とは全然モノが違ったよ。めったに他人を褒めない落合さんも、“この先、どんなバッターになっていくんだろうな”って、ボソッと言ってたくらいだしね」

 その清原が初の4番を任され、31発目を放り込んだのが、くしくも1986年10月7日のロッテ戦。目の前で快挙達成を見せつけられた落合氏から、感嘆の声が漏れたのもうなずける。

「センターからライト方向に、あそこまで大きいのが打てた右打者は、当時は落合さんぐらいしかいなかった。(清原は)三振は多かったけど、選球眼はもともと良かったから、今の佐藤輝のように2ストライクからでもフルスイング、みたいなことも少なかったしね。同期のアキ(秋山幸二)を初めて見たときも度肝を抜かれたけど、唯一、その上を行ったのがキヨだったよ」(前同)

■ミスタージャイアンツのすさまじさ

 一方、残した成績のすさまじさで清原のさらに上を行ったのがミスターだ。

 デビュー戦こそ、金田正一相手に“4連続三振”を食らったものの、そこからわずか数か月で、川上哲治に代わる巨人の4番に成長。終わってみれば、58年の打点&本塁打の二冠王にまでなってしまったのだから、さすがと言うほかない。

「新人でのフルイニング出場はセ・リーグ初の快挙でしたし、92打点は現在もセ新人の歴代最多。153安打も、19年に阪神・近本光司が更新するまではリーグ記録でした。しかも、走っても37盗塁をマークしていますから、かの有名な“本塁打での一塁ベース踏み忘れ事件”がなければ、史上唯一となる新人トリプルスリーも達成していたはずでした」(スポーツ紙デスク)

 ちなみに、そのミスターが監督時代に手塩にかけたゴジラこと松井秀喜の本格ブレイクは、プロ2年目だった。ルーキーイヤーの93年は57試合で打率2割2分3厘、11本塁打、27打点と、入団時点での高すぎる期待値からすると、やや物足りない成績に終わっている。前出の愛甲氏が解説する。

「スイングの速さと遠くへ飛ばす能力は最初からズバ抜けたものを持っていたけど、1年目はまだ脆さもあった。そういう意味でも長嶋さんやキヨとは、ちょっと違う。もちろん、その後に残した結果はド派手だったけど、同じ野球人から見ても、彼自身はけっしてスマートで華のあるタイプじゃなかったしね」

■“球界の常識”を根底から覆した怪物

 では、投手ではどうか。真っ先に名前が挙がるのはやはり、「高卒=育てるもの」という“球界の常識”を根底から覆した1999年の西武・松坂大輔だ。

「ルーキーイヤーに、松坂は16勝を挙げて最多勝のタイトルを獲っていますが、これは高卒新人では45年ぶり。新人王の受賞も、巨人・堀内恒夫以来33年ぶりの快挙でした。また、1年目でのベストナイン選出、デビューから3年連続での最多勝獲得も、それぞれ高卒新人では史上初。残した結果のうえでも、前評判に違わぬ“怪物”ぶりを披露しました」(スポーツ紙記者)

 他方、松坂がパを席巻した99年のセ・リーグでは、無名の存在から“目玉”へと急成長を遂げた巨人・上原浩治も、圧巻のデビューを飾っている。その座右の銘である「雑草魂」は、松坂の「リベンジ」とともに、新語・流行語大賞にも選ばれた。

「上原との初対戦は、まず真っすぐの質に驚いたよ。端的に言うと、並の投手とは手元が違う。こっちは捉えたと思って振りに行っても、なぜか空振りしてたよね。フォークなんかは、そこまで大したことなかったけど、あの真っすぐはすごかったよ」(愛甲氏)

 この年の上原は、先の松坂と同様の“堀内超え”となる、シーズン15連勝を含む平成年間の新人では唯一となる20勝に到達した。最終的には、新人史上3人目となる投手四冠(最多勝、最優秀防御率、最高勝率、最多奪三振)に加え、新人王&沢村賞の同時受賞まで果たしている。

「10月5日の対ヤクルト戦。松井と本塁打王を争うペタジーニへの敬遠指示に、悔し涙を流した彼の姿はいまだに忘れ難い。消化試合でしたが、自身の20勝とタイトルも懸かる落とせない一戦。そんな局面でも、あくまで真っ向勝負にこだわった、あの負けん気の強さは並大抵ではないですよ」(専門誌記者)

 上原と松坂。同じ年にセ・パに現れた2人のルーキーを、当時、現役の打者たちは、どう見ていたのか。

「あの頃、俺は中日にいたから直接の対決はなかったけど、“松坂のあのスライダーは打てない”って声は、周りからもよく聞いた。上原も当然すごいんだけど、なんせ大輔は高卒。それがいきなり投手陣の真ん中に陣取ったんだから、やっぱり別格だよ」(愛甲氏)

 確かに松坂以降、速球派の高卒投手は次々と出現したが、彼に比肩する活躍を見せたのは、2007年に11 勝をマークした田中将大ぐらいだろう。愛甲氏の「ボールを、あそこまで扱いこなせていたのは松坂だけ」という指摘は、ファンの実感からいっても得心がいくところだ。

 そんな愛甲氏が全盛期を迎えていた1990年では、“トルネード投法”の野茂英雄も忘れられない一人だ。制度変更によるパ・リーグ初の沢村賞、新人賞に加え、MVPまで獲得した新人投手は、今もなお野茂が唯一の存在だ。

「まず、あのフォームにビックリしたし、どこに合わせていいのか、最初は戸惑いのほうが大きかった。もともと制球はよくないから、ヘタにコースを絞れないってのも厄介でね。2年目以降は球速もさらに上がったし、決め球のフォークも意図して角度を変えて落としてきた。本塁打もフォークのすっぽ抜けを打った1年目の1本が、最初で最後だったね」(愛甲氏)

■球史に残る名手の圧倒的な新人時代

 では、もっと昔の投手たちの実力ははたして、いかほどか。現代の感覚からすると、にわかには信じ難い数字を残しているのが、中日時代の権藤博だ。

「61年の権藤さんは、69試合中、44試合に先発して、32完投12完封。35勝をマークして、防御率も1.70ですから、長く野球を観てきた我々にも、ちょっと理解が追いつきません(笑)。勝利数や完投数はもちろん、投球回429.1回、310奪三振なども新人最高記録。『雨、雨、権藤、雨、権藤』のフレーズが流行語になったぐらいですから、当時の中日はまさに権藤に“おんぶに抱っこ”の状態だったんでしょう」(元スポーツ紙中日担当記者)

 翌年も30勝を挙げて2年連続の最多勝にも輝いた権藤だが、登板過多と間違ったケアによって肩を故障。その球威は二度と戻ることなく、野手転向をも余儀なくされた。

「そういう意味でも、400勝投手、金田さんが見せた国鉄時代のタフネスぶりは際立ちますよね。シーズン途中の入団だった50年シーズンこそ8勝止まりでしたが、翌年以降、巨人に移籍する64年までは14年連続で20勝以上。投球回も毎年300回をゆうに超えていますから、どれだけ突出した存在だったかが、うかがえます」(球団関係者)

 ところで、今や一般的となった“怪物”の称号は、作新学院時代に高校球界を席巻した江川卓を、大きな耳が特徴的なキャラクター『怪物くん』になぞらえて呼んだのが、その始まりと言われている。指名拒否や、かの“空白の一日”を経たプロ1年目の79年を9勝で終えた江川に対しては、「高校から、すんなりプロ入りしていれば……」と惜しむ声も少なくない。

「現役晩年に一度だけ当たったオープン戦でも、あのゆったりしたフォームから、なんで、こんな球が来るんだって思ったぐらい、抜群の真っすぐを投げていた。それだけに、プロ入りがもっと早ければ、大輔以上の、とんでもない成績を残した可能性も大いにあるとは思うよね。法大でバッテリーを組んだ袴田(英利)さんも“試合でも本気で投げることは少なかった”って言ってたし、本当の怪物っていうのは、江川さんみたいな選手のことを言うんじゃないかな」(愛甲氏)

 球史に名を刻む名手たちの圧倒的な新人時代――。

 佐藤をはじめとした話題のルーキーたちはどんな伝説を残すのか。今季も新人たちの活躍から目が離せない。

2021/4/18 9:10

こちらも注目

新着記事

人気画像ランキング

※記事の無断転載を禁じます