再開したあいちトリエンナーレ『表現の不自由展、その後』に行って感じた、止められないアーティストの創造力|久田将義

抗議の看板

芸術・美術に造詣のない僕ですが、『あいちトリエンナーレ』に行ってみました。もちろん『表現の不自由展、その後』が目当てではあるのですが、それよりも「現代アート」というものに触れてみたかったのです。美術館には今までほぼ行った事がありません。せいぜい、知り合いのカメラマンの写真展ぐらいです。

で、取材というより、「初めて美術館に来た客」という立場に心境を置いてみました。

「物騒な事になっていたら嫌だな」と思いながら会場に行くとそういう事はなく、ほっとしました。左であろうが、右であろうがイデオロギー色満々の人がいたら嫌だなとも感じていました。先入観無しにアートに触れてみたかったのです。

どうしても『表現の不自由展、その後』に焦点が当てられてしまいます。何だか、きな臭い事になっていますが、僕にとってのアートは平静であって欲しいのですよね。実際、小さなお子さんを連れた家族連れもいましたし。

色々言う前にまず、「実際に見ないと」という考えでした。

関連記事:『表現の不自由展・その後』はなぜ中止になったのか 表現の自由の“向こう側”にあるものとは|久田将義 | TABLO

事実、抗議活動などはなく、写真にある通り看板が出ている程度でした。平日だったせいもあるでしょう。

愛知芸術センターに入ると、まずは『表現の不自由展、その後』の抽選に向かいます。「スタッフ」と首から下げた人に聞いたりしながらリストバンドをはめてもらいました。スタッフの人も「運動家っぽかったらちょっと……」と思っていたのですがそんな感じではありませんでした。

抽選発表の時間まで40分くらいあるので、それまで展示(国際現代美術展)を見に行くことにしました。色々な作品を見てみました。

結論から言うとアートって楽しい。そんな想いを抱きました。

僕が目を引かれた作品は二つありました。一つは、ビジネスマン風の男女か六人くらい、1時間ずっと笑い続けている動画です(アンナ・ヴイットさん作品)。何で笑い続けているのかわかりませんが、とにかく笑い続けています。妙に気になりました。一時間、動画の前に居たいくらいでした。

また、ピエロが広い空間の中で何対もいる作品がありました(ウーゴ・ロンティーノさん作品)。人間が一日のうちで、どういう格好をするのかを表現しているのだと言います。そのピエロが本物の人間のように見えて、大道芸人のサイレントパフォーマンスなのかなと思うくらいでした。結果、不思議な情景を産み出していました。まるで、スタンリー・キューブリックの世界に迷いこんだかのような気持ちになりました。

気持ち悪いような良いような、胸がモワモワする何とも言えない感じになりました。それでいてずっとこの部屋にいたいような気持になりました。例えて言えば、頭のマッサージ器具がぞわぞわっとして、初めは気持ち悪いけど次第に病みつきになる、という感じでしょうか。

他にも色々あったのですが、興味深いものばかりでした。時間があればじっくり見ていたかったです。アーティストの「表現をしたい」という欲求は止められないんだなと、作品を観ながらながらぼんやりと感じていました。

その流れからの『表現の不自由展、その後』。そろそろ抽選発表の時間です。抽選場所には多数との人が集まっています。抽選に当たった事がない僕は期待してなかったのですが……。

幸いにも当たり、入場する事が出来ました。入り口で持ち物をビニール袋に入れ身体検査後、スタッフから説明があり入場。

この過程が既に異様だなと思いました。さっきまで楽しかったのに。運営のせいなのか。電凸攻撃をしてきた人のせいなのか。メディアのせいなのか。アートを楽しく平静に見たいと思う人もいるでしょうに。

『表現の不自由展、その後』は確かにイデオロギッシユでした。それでも作品はアートとして成立していました。

平和の少女像も、実際に見ると可愛らしく感じました。作者の、人間の、息吹が感じられました。僕はそれを尊重したいと思います。作者の方が現場にいらっしゃって、最後に、

「今日は有難うございます。こういう段階を経てしか見られずに申し訳ありません」

というようなことを仰っていました。確かに残念に思われたのでしょう。皆に、広く見てもらえれば良いのに。それで、作品批判する人もいるでしょう。では、話し合えば良いではないですか。

僕が嫌なのは、国内が分断する事です。

例えば、ある写真家の作品が僕はたまらなく嫌です。というより許せないという感情さえ抱いています。ただ、その写真家の活動が制限・制止させられる事があるようなら、それには反対しようと考えています。

最後に大浦信行さんの「遠近を抱えて PartI」を鑑賞しました。テレビ画面(?)に20分ほどのショートムービーを流して、来場者(当選者)を集めて観るというものです。この作品が動画ではなく、ショートムービーなのだと勉強不足ながら初めて認識しました。

非常に抽象的で、何を表現しようとしてるのか理解しづらかったので、一生懸命、集中して観ました。昭和天皇のコラージュ(大浦さんの作品)が燃やされます。女の子が登場して、インパール作戦(太平洋戦争中、最も悲劇とも称される無謀な作戦)に向かう前に母親に書いた手紙を朗読。海岸で何個かのドラム缶が花火のように打ち上げられる……。多分、大浦さんの心象風景なのではと想像しました。

新右翼の作家、故・見沢知廉さん(僕も見沢さんとは知己で原稿を二回ほど担当しました)の映画も制作している大浦さんの事ですから、昭和天皇に対して「何らかの」想いを抱いていた事は想像に難くありません。愛憎なのかどうなのか、あまり浅薄な事を言うのはこの辺りで止めておきます。

とにかく、最初から最後まで鑑賞してから、意見を言うべきだとは思います。

参考記事:90年代サブカル鬼畜ブーム? 「口だけ文化系アウトロー」のふざけた言動 | TABLO

また抽選システムにしてしまった事で、限定の人しか見られず、本当に忌避の展示会のように見えました。オープンであるべき「表現の自由」に基づくアートが「自由に見られなくなってしまった」のはどこに原因があったのか。作家さんたちは残念に思っているでしょう(前述しましたが)。

河村名古屋市長にはアーティストは「理解不能なものを作り出すよくわからない人種」みたいなイメージがあるのではないでしょうか。確かに僕には理解不能な作品がたくさんありました。ただそれは僕に審美眼がないだけで、例えばバスキアの作品などもどこが良いのが分からないほどです。それでも、アーティストたちの「情熱」は理解しているつもりです。それを尊重出来ないものでしょうか。

アーティストの創作力を止めることなど出来るはずもありません。あるとしたらそれは「検閲」になります。

右翼民族派の人たちと、僕は交流を持って約二十年くらいになります。どうしても彼らが譲れない点は、天皇制護持です。

僕が取材した東日本大震災では被災者の皆さんが放射線の影響もあり、自分の故郷を捨てなければならない状況がありました。僕も彼らと接していると涙が出そうになりました。その人たちが避難している体育館に上皇が行かれ、言葉をかけられました。涙を流している被災者の方を見ました。上皇の行動はリスペクト以外の何者でもありませんでした。菅直人首相(当時)が被災者を体育館に見舞った際、罵声を浴びたのとは大違いでした。

で、そういった史観とは別にアートというものを捉えられないものでしょうか。今回、現代美術を初めてじっくり見て「楽しかった」のです。思想的作品はたくさんあります。美術だけでなく、小説も映画も演劇も。クリエイターの創作力を止めることは出来ません。何かを、アートによって表現出来るのは人間だけです。動物には出来ません。人間が人間たる所以です。ある右翼が僕に言っていました。

「結局、人なんだよ」

そう思います。再度言いますが、日本人が分断する状況だけは止めて頂きたいのです。「アートは楽しいものだ」。難しい事は言いません。頭の中をシンプルにして『あいちトリエンナーレ』で現代美術にふれてはいかがでしょうか。考えるのは観てから、帰りの電車や車の中でも良いと思います。(文◎久田将義)

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この記事のみんなのコメント

1
  • ばんび

    10/14 17:27

    分断させる様な事やってるの誰だよ!(`´)

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