甲子園あるある!? 初めて試合に敗れて土を持って帰ったのは誰だ?~甲子園の土にまつわる物語

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 “甲子園あるある”というべきか、試合に敗れた球児たちはほぼ全員が甲子園の土を持って帰る。これはいったい誰が始めたのか。連日、プロアマ問わず野球情報を発信しているスマホサイト『週刊野球太郎』編集部によると、2つの説があるという。今回はその甲子園の土について聞いてみた。

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◎こだわりの甲子園の土

 甲子園の土は、建設当時からこだわりを持って用意されたという。開場当初は火山灰の黒土と白土(海砂)をブレンドした土を使用。現在は桜島(鹿児島)、阿蘇山(熊本・大分県)、大山(鳥取県)などの黒土と、中国福建省の白土をブレンドした土を使っている。土の種類は毎年決まっているわけではなく、雨量と日差しによって微妙に配合を変えているそうだ。ちなみに球場への土の補充は2年に一度、暮れから正月にかけてのオフシーズンに実施される。一度に全面の土を替えるのではなく、少しずつ新しい土を加えていく。黒土と砂の配合割合は、春は雨が多いため砂を多めに、夏は白いボールを見やすくするために黒土を多くブレンドするなど、今も昔も変わらないこだわりを持って用意されている。

◎プロ野球界のドン・川上哲治説

 では、試合に敗れた後、その甲子園の土を最初に持ち帰った球児は誰か? 2つある説のなかの1つは、巨人V9時代の監督、あの故・川上哲治だという説。1937(昭和12)年、第23回大会の中京商vs熊本工の決勝戦は、3-1で中京商が勝利。試合に敗れた熊本工の川上は「私は記念に甲子園の土を袋に入れて持ち帰り、熊本工のマウンドに撒いた」と当時を振り返っている。

◎3連覇をかけたエース説

 もう1つは、夏の甲子園三連覇をかけて登板した小倉北高のエース・福島一雄だという説。1949(昭和24)年、第31回大会の準々決勝戦に登板した福島は、連投の影響で「鉛筆も持てないくらい」ヒジを痛めていた。迎えた9回裏、右ヒジは限界に達してついに投手交代。結局、後続の投手が打たれてサヨナラ負けを喫した。三連覇を逃してベンチへ引き揚げるナインのなかで、福島は1人でマウンドに歩み寄り、スコアボードを見つめたまま立ちすくんだという。そして、無意識にプレート付近の土を一握りしてポケットに入れ、涙ぐみながら退場した。

 その福島のもとに、大会が終わってから大会委員長から手紙が届く。「よくやった。これからも頑張ってください」というねぎらいの手紙で、土を拾ったことも書いてあった。福島は手紙を読んだ後、慌ててユニフォームのポケットを確認すると、甲子園の土が入っていたという。

 最初に土を持って帰ったのは川上か福島か? 時期として早いのは川上だが、客観的に証拠となるものがなく、はっきりと言えないのが現実だ。いずれにせよ球児たちの悔しさから生まれた行為であることは間違いないだろう。

◎甲子園の土を取り巻く様々なドラマ

 1958(昭和33)年の第40回大会には、大会史上初めて米軍統治下にあった沖縄代表のチーム・首里高が甲子園にやってきた。試合に敗れた首里ナインは、持参した袋に一握りの土を入れ、沖縄に持ち帰ろうとした。憧れの甲子園の土は、選手たちにとっては祖国の土でもあったのだ。しかし、大切に持ち帰ったその土は、植物検疫法に触れたため沖縄への持ち込みを禁じられ、海へと捨てられてしまったという。このように甲子園の土には、さまざまなドラマが隠されているのだ。

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