潰された「菅プラン」が持っていた“憲法上の正しさ”<著述家・菅野完氏>

◆異様な記者会見

 9月9日に菅総理が行った緊急事態宣言延長に関する記者会見は、異様なものだった。

 NHKの中継映像からして、いつもと様子が違う。普段の総理会見では決して映り込むことのないプロンプターが、頻繁に画面に登場するのだ。会見直後から配信が始まった新聞各紙のインターネット記事に添えられた写真も同様。ほぼ全紙が「プロンプターを利用する菅義偉」を被写体としている。

 一番顕著(悪質と言うべきか)だったのは産経新聞で、透明アクリル板状のプロンプター越しに、菅総理の顔面をアップで押さえている。これではまるで拘置所で面会を受ける勾留者ではないか。行政上のアナウンスを行う総理の記者会見で、ことさらにプロンプターを映り込ませたり、あるいは産経新聞のようにプロンプター越しに総理を撮影することは、極めて異例。ある種の悪意を感じざるを得ない。

◆政治家・菅義偉の死

 思えば、菅総理の総裁選不出馬・所謂「フルスペック」での総裁選の実施との決着に行き着いた今回の政局の間ずっと、菅総理は意図せぬ悪意に翻弄されてきた。

 その最大の事例が、毎日新聞による8月31日深夜配信の「首相、9月中旬解散意向 党役員人事・内閣改造後」というスクープ記事だろう(紙媒体としての初出は9月1日朝刊)。

 このスクープ記事で毎日新聞は「菅義偉首相は自民党役員人事と内閣改造を来週行い、9月中旬に衆院解散に踏み切る意向だ。複数の政権幹部が31日、明らかにした。自民党総裁選(9月17日告示、29日投開票)は衆院選後に先送りする。首相は衆院選の日程を10月5日公示、17日投開票とする案を検討している」と、半ば断定するように書き切っている。

 菅総理が総裁選を後ろ倒しにし衆院解散総選挙を先に行うことを模索しているのではないかとの観測は、このスクープ記事が出るずいぶん前から流れていた。事実、報道各社はその観測に基づいて様々な記事を8月中旬に書いている。

 しかしこの毎日新聞のスクープ記事は違う。「9月中旬に衆院解散に踏み切る意向だ」「複数の政権幹部が31日明らかにした」との書き振りからは、毎日新聞が本件を記事化するにあたって揺るぎない自信と確たる証拠を押さえている様子が窺える。

 だからこそこの記事はネットでの配信直後から燎原の火の如く広まり、さまざまな反応を引き起こした。自民党内では「そんな政治日程は、総理の個利個略だ」との声が高まり、ついに翌日、総理は、「解散する状況にない」と自ら記者会見するのやむなきに追い込まれたのだ。

 毎日新聞は新聞として当然の仕事をしたに過ぎない。だが、結果としてこのスクープ記事は、毎日新聞の意図を離れ、菅総理を翻弄していくことになる。

 この記事に接した自民党の国会議員たちはたちまち「そんなバカな話があるか!」と騒ぎ始め総理の日程プランを潰そうと躍起になり始めたのだ。そして、毎日新聞に抜かれたメディア他社も、ことさらに声高に「総裁選の後ろ倒し・解散総選挙の先行実施」という菅総理が描いていた日程プランを批判し始めた。その声は、毎日新聞に抜かれた腹いせからか、時間が経つほど大きくなっていく。

 かくて、あのスクープからわずか半日で、菅義偉の秘策であった「総裁選の後ろ倒し・解散総選挙の先行実施」プランは撤回を余儀なくされてしまった。

 菅総理は自身の延命のために「総裁選の後ろ倒し・解散総選挙の先行実施」というプランを思いついたに過ぎない。そしてそのプランを漏れ聞いた毎日新聞は、自身の職責を果たすためにそれを記事化しただけのことである。

 その記事を読んだ自民党の議員たちもまた、自身の延命をかけて菅総理のプランを潰そうと躍起になった。毎日新聞に抜かれたメディア他社もまた、自らの沽券にかけて、毎日新聞が報じるところの総理プランを潰そうと必死になって批判を重ねた。

 皆がみな、自分のことだけを考えて動いたに過ぎない。その個々の動きに、特段の悪意はないだろう。

 しかし、それぞれが自分のことだけを考えて動いた結果、政権の崩壊、政治家・菅義偉の死という、想定外の結果が出来した。登場人物は誰一人として悪意など持っていないにもかかわらず、気づくとそこに死体が横たわっていた……。あたかもシェイクスピア劇のようではないか。

◆憲法が殺された

 だが、今回の悲喜劇の最終盤で死体となって横たわっているのは菅義偉だけではない。もう一つの死体が転がっている。

 憲法だ。

 菅義偉が自らの延命のために企図した「総裁選の後ろ倒し・解散総選挙の先行実施」を実行に移すためには、まず、国会を開かねばならない。

 確かにその国会召集は、国会を解散するためだけの、そしてこのプランの場合は、菅義偉が延命するためだけの国会召集となるであろう以上、歪なものである。しかし一方で、すでに野党が衆議院の四分の一の同意を取り付け内閣に国会召集を要求しているのも事実で、憲法53条の規定から言えば、国会召集は憲法上の義務でさえある。

 その意味で、いかに保身から出た日程案とはいえ、解散総選挙の先行実施のために国会を速やかに開催することは、憲法の規定に合致していることとなる。逆に言えば「総裁選の後ろ倒し・解散総選挙の先行実施」の菅プランを「個利個略だ」と論いこぞって潰した自民党の党内意見やメディアの論調こそが、憲法の規定を踏み躙っていたということだ。

 菅プランの“憲法上の正しさ”は、自民党の総裁選がいわゆる「フルスペック」となることが確定したことで、さらに際立つこととなっている。

 今回の総裁選は任期満了に伴うものであり、無投票――これも菅総理が目指したものだが――でない以上、一般党員投票を行わなければいけない。自民党の各都道府県連ではその一般党員の投票を取りまとめる必要がある。だからこそ総裁選の選挙期間は、衆議院選挙と全く同じ12日間と定められている。それだけ日数がかかるのだ。

 その選挙日程に従うと、新総裁の誕生は9月29日。国会召集はその後になり、しかもまず首班指名選挙を行うところから始めなければならない。新しい内閣総理大臣の誕生は、どうしても10月上旬にずれ込まざるを得ない。その新総理が自身を首班として指名した衆議院を直ちに解散したとしても、どうしても総選挙は衆議院の任期=10月21日を超えてしまうではないか。論理的には、首班指名→組閣→解散→10月5日公示→10月17日投開票とのスケジュールも可能だが、それでは選挙実務を担う地方自治体に無理が生じる。やはり現実的には、「任期満了後の投開票」ということになる。

 つまり、あくまでも自民党総裁選挙を解散総選挙の前にやることに拘るならば、衆院任期満了を超えての解散総選挙という、憲法の規定と矛盾する事態の出来は避けられないのだ。

◆市民生活そのものが第三の被害者になる可能性も

 となると、やはり菅義偉が画策した「総裁選の後ろ倒し・解散総選挙の先行実施」こそが、唯一残された「憲法に抵触しない政治日程」だったことになる。菅義偉は自己保身からこの日程を画策したのだろうが、結果として、菅義偉こそが誰よりも憲法を尊重していたわけだ。しかし菅のこの企図は挫かれた。現実論としても憲法の要請としても大正論である菅の「総裁選前の解散総選挙」プランは、「菅さん一人の延命策でしかない」「奇手奇策だ」として、自民党内からだけでなくメディアからも総攻撃を受け、崩れ去ってしまった。

 いかに与党といえども、自民党は単なる一政党。私的集団に過ぎない。にもかかわらず、その私的集団の日程こそが大事であって、憲法の要請する日程論はそれに劣後するのだと、保身に走る国会議員たちだけでなく、メディアまでもがそう主張したのである。そして、唯一憲法と矛盾しない日程であった菅プランが潰れたことを、皆が喜び、自民党総裁選に夢中になっている……。

 やはり、殺されたのは菅義偉だけではない。同時に、憲法も殺されたのだ。菅義偉も、日本国憲法も、無惨に殺され、その死体は打ち捨てられ、弔う人とていない。

 しかしどうやら、この連続殺人はこれで終わりというわけでもなさそうだ。

 憲法の規定なんぞどうでもいい。菅義偉の日程案は言語道断である。まずは自民党総裁選挙だ。河野だ岸田だ石破だ高市だ……。朝野をあげて自民党総裁選挙に夢中になるあまり、コロナ対策のための補正予算審議も、コロナ対策として積み上げられたはずの40兆円の予備費も手付かずのまま忘れさられている。

 このままいくと、市民生活そのものが、第三の被害者として、悲しい骸を晒す日がやってくる日も近いのかもしれない。

<初出:月刊日本10月号>

【菅野完氏】

著述家。’74年生まれ。サラリーマンの傍ら執筆活動を開始。『日本会議の研究』は、第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞受賞

―[月刊日本]―

【月刊日本】

げっかんにっぽん●Twitter ID=@GekkanNippon。「日本の自立と再生を目指す、闘う言論誌」を標榜する保守系オピニオン誌。「左右」という偏狭な枠組みに囚われない硬派な論調とスタンスで知られる。

2021/9/25 8:50

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