川相昌弘が“電撃退団”の8年後、巨人にコーチとして舞い戻ったワケ

大男たちが一投一打に命を懸けるグラウンド。選手、そして見守るファンを一喜一憂させる白球の行方――。そんな華々しきプロ野球の世界の裏側では、いつの時代も信念と信念がぶつかり合う瞬間があった。あの確執の真相とは? あの行動の真意とは?引退試合の後、引退撤回と自由契約を巨人に求めた川相。巨人を飛び出した男の信念に迫る。

◆40歳での新天地。チームのため、己のため貫き続けた信念の行方

 川相昌弘が21年間在籍した巨人に自由契約を申し入れたことで、さまざまな憶測が飛び交った。マスコミは、原監督に代わって就任する堀内恒夫新監督との確執を面白おかしく書き立てた。

 確執が噂された発端は、’98年7月8日、広島との札幌シリーズ2連戦2日目の出来事だ。

 この日、朝から激しい雨が降っていたため、デーゲームの開催が危ぶまれていた。巨人ナインは試合会場である円山球場に向かい、10時20分には首脳陣からランニング練習の指令が下った。

 豪雨の中、外野の芝生を走る巨人ナイン。デーゲームの中止が10時50分に決まってもランニングは続き、11時にようやく終了。すると、ベンチに戻った清原が鬱憤を吐き散らすように用具室のパイプ椅子を投げつけた。川相も応戦するかのように別室で椅子を蹴っ飛ばすと、当時ヘッドコーチだった堀内が「なんだ、その態度は!」と近くにいた川相を平手打ち。俗に言う“堀内殴打事件”だ。

◆“堀内殴打事件”とは?

「清原がパイプ椅子を投げて暴れたんですよ。僕も怒りに任せて椅子を蹴っ飛ばしたら、偶然近くにいた堀内さんが怒って反射的に僕が殴られた。あれは……自分が悪かったと思います。逆の立場だったら自分も怒りますね。あの後、ホテルに戻って堀内さんの部屋に行って謝罪しましたから」

 ランニング強制の意図は、雨で中止となった球場に観客が大勢駆けつけていたため、少しでも選手の姿を見せてあげようというファンサービスだったとされている。問題は、その間の首脳陣の態度に川相は選手会長として納得がいかなかったとも言われている。真相はどうであれ、些細なイザコザを大事件のようにマスコミが扱い、この一件以降、2人には禍根が残り続けていると度々報道された。

「この事件が引き合いに出されて『堀内さんのことが嫌いだから出ていった』と書かれましたが、一切関係ない。堀内さんは大先輩でもあるし、監督に就任されてから直接二軍コーチ依頼の電話をいただいています」

 川相は表情を崩さず、誠実さがこもった声で話す。

◆引き際だけは誰にも指図されず自分で決めたい

「それでも巨人に自由契約を申し入れたのは、そうしないと自分の気が収まらなかったという部分が大きいです。もちろん、一生巨人に戻れない覚悟で出ていきました」

 プロ野球が誕生しておよそ90年、引退を自分の意思だけで決められた選手はほんのひと握りだったと言っていい。どんなに現役にこだわっても、球団からの肩叩き、周囲からの圧力によって退かざるを得ないのが実情だ。

 そんな世界だからこそ川相は「自らの引き際は誰にも指図されずに自分で決めたい」という強い思いと、「40歳まで二遊間を守れる選手でありたい」という捨てきれない信念が重なり合い、21年間在籍した巨人を退団する決心をする。

 そんな川相の決心に呼応したのが、中日ドラゴンズの監督に就任したばかりの落合博満だった。

 ’03年10月、新聞紙上に「川相に興味がある」という落合のコメントが掲載された。それを知った川相は落合に電話をし、「とりあえず沖縄に来てくれ」と秋季キャンプ参加の話を受ける。

◆移籍から電撃退団まで

「入団は、キャンプに参加する時点で決まっていたと思います。要は、落合さんは僕が巨人をやめてくる覚悟を見たかったんだと思います」

 落合も’94年にFA移籍し、巨人に在籍した過去を持つ。当時の落合は何から何まで特別待遇だった。日本プロ野球史上唯一となる三度の三冠王を獲得していた落合に、ほとんどの選手が恐れ多くて気軽に話しかけられなかった中、川相だけは分け隔てなく落合と接したという。そんな縁もあってか、川相は快く中日へ移籍する。

「野球をやるだけだったらどこに行っても大きく変わらない。ただ、球団内でのルールはちょっとずつ変わります。たとえば巨人には昔から門限があります。ずっと0時が門限だったのを、僕が選手会長の時に交渉して1時まで延ばしたんです。長らく交渉して、ようやく1時間延びたという感じですから。でも、中日に行ったら『20歳以上は自分で責任を持て』ということで門限はなし。そんな細かな違いは新鮮でしたね」

 高校卒業以来、21年間同じ組織に身を置いてきた男が飛び込んだ、40歳での新天地。中日では若手に手本を示す形でプレーをし、3年間で二度のリーグ優勝に貢献。’06年、今度は「やりきった」という思いとともに現役を引退した。翌年からは中日で一軍内野守備走塁コーチを務め、’10年には二軍監督に就任。しかし、同年9月に中日を電撃退団する。

◆巨人へ8年ぶりに復帰

 中日は4年ぶりのリーグ優勝を決めたばかりで、通常、日本シリーズが控えたチームは全日程が終了するまで人事には手をつけない。マスコミは「落合監督不仲説」「中日二軍監督は左遷ポスト」といった見出しで煽るなど、いろいろな風評が流れた。

「僕も驚きましたよ。でも、落合さんから『東京のほうへぼちぼち……』と言われました。中日退団が決まってから、巨人から二軍監督のオファーがきたんです」

 川相自身も、中日二軍監督の電撃退団と突然の巨人二軍監督就任に驚きを隠せない様子だった。これは憶測の域を出ないが……川相を認めていた落合の親心か、「お前は巨人に戻るべきだ」という計らいがあったのかもしれない。

 そうして、「一生戻れない」と覚悟していた巨人へ8年ぶりに復帰。’13年からは一軍ヘッドコーチ、’15年には原がインフルエンザで休養した際に5試合(4勝1敗)監督を代行するなど、第2次原政権には欠かせない男となった。

◆真のプロフェッショナルの条件とは

「巨人を退団したとき、先のことは何も決まっていなかった。今考えると恐ろしい状況ですよ。でも、中日が拾ってくれて、納得のいく引退をさせてもらって、最終的には巨人でコーチをさせてもらった。僕は幸せ者に違いないです」

 川相の言うように、プロ野球は肩を叩かれれば明日にでも“無職”に転じる厳しい世界でもある。そんな世界で長年、チームのために自分の役割を果たすために文句も言わずに犠打を重ね、現役終盤には安泰を捨ててでも己の意志を通した川相。

こうして常に信念を貫いてきたからこそ、人生の岐路に立たされたとき、必ず道が切り開かれた。技を磨き続けることもプロの絶対条件だろう。だが、信念を貫き通すことも真のプロフェッショナルの条件なのだと、川相の背中が語っていた。

【川相昌弘】

’64年、岡山県生まれ。長らく巨人軍のレギュラーとして活躍。通算犠打数533本(成功率.906)は現在も世界記録で、「バント職人」と評されることも。犠打のイメージが強いが、通算1199安打、遊撃手としてゴールデングラブ6回受賞など、打撃・守備でも一流の成績を残す

取材・文/松永多佳倫 写真/産経新聞社

―[プロ野球界でスジを通した男たち]―

【松永多佳倫】

1968年生。岐阜県出身。琉球大学大学院在学中。出版社を経て2009年8月よりフリーランスとなり沖縄移住。ノンフィクション作家として沖縄の社会学を研究中。他にもプロ野球、高校野球の書籍等を上梓。著作として『まかちょーけ 興南 甲子園優勝春夏連覇のその後』、『沖縄を変えた男 栽弘義―高校野球に捧げた生涯』(ともに集英社文庫)、『マウンドに散った天才投手』(講談社α文庫)、『最後の黄金世代 遠藤保仁』、『善と悪 江夏豊ラストメッセージ』(KADOKAWA)など。現在、小説執筆中

2021/9/21 8:53

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