【連載対談】【対談連載】豆蔵 執行役員 ビジネスソリューション事業部長 主幹コンサルタント 牟田嘉寿

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 【東京・新宿発】現在、豆蔵の執行役員を務める牟田さんのこれまでの歩みは、ちょっと面白い。面白いといっては失礼かもしれないが、いわゆる昔ながらのエリート街道を突っ走りそうなプロフィールなのに、あえてそこには行かない感じがするのである。就職の内定をもらったのに司法浪人を決意したり、アプリ本の印税で会社を設立したりと、なかなか賑やかだ。でも、その半生には一本筋が通っていた。幼い頃から現在に至るまで、プログラミングからは一度も離れたことはなかったのだ。
(本紙主幹・奥田喜久男)

●小学4年生のときポケコンでプログラミング


 現在、牟田さんは豆蔵のビジネスソリューション事業部を率いておられますが、もともとプログラミングの世界にはなじみがあったのですか。
 そうですね。父がパソコン好きだったことも影響して、小学4年生のときにこづかいでポケコンを買いました。それが、プログラミングとの最初の出会いですね。
 小学校の4年生でポケコンですか。それはずいぶんと早熟ですね。それでプログラミングは誰に教えてもらったのですか。
 独学です。最初のうちは、自分が入力した命令通りにプログラムが動くことが面白かったですね。でも、中学・高校になると、ゲームや学習ソフトを自作するようになるのですが、そのソフトで友達などに楽しんでもらうことが自分にとっての喜びになりました。
 独学ですか。すごいなぁ。やっているうちにプログラミングの面白さのフェーズが変わってきたんですね。ところで牟田さんは、どんな少年時代を過ごされてきたのでしょうか。
 私の家系には医師が多く、母方の祖父も開業医でした。「男は医師、女は薬剤師になれ」といわれるような家庭環境です。故郷はかつて炭鉱の町として栄えた福岡県飯塚市ですが、小学生の頃は「〇〇医院のお孫さん」と呼ばれ、牟田嘉寿という名前で呼ばれないことに反骨心を抱いていました。それで、こんな町は飛び出してやると、長崎県にある中高一貫の青雲学園に入学し、寮での生活を始めたんです。
 寮生活はどんな様子でしたか。
 4人部屋で同級生と中学・高校の6年間を過ごしました。なかなか厳しい生活でしたね。ただ、内向的だった自分がそこで鍛えられ、仲間たちとけんかもしましたが、コミュニケーション力や人を動かす力を身につけられたことはとてもよかったと思います。
 高校卒業後は福岡に戻り、九州大学の法学部に進みました。だから、私は文系出身なんです。
 おや、それはちょっと意外ですね。
 厳しい寮生活の反動もあり、大学ではあまり熱心には勉強しなかったけれど、就職の内定は何社かからいただきました。でも、幼い頃から聞いていた「手に職を持て」という祖父の言葉が頭をよぎり、このまま会社に就職するのではなく、司法試験の合格を目指そうと方針を転換しました。
 法律の専門家になるぞ、と。
 ご存じのとおり、法律というものは体系化されていますが、その体系を整理し学ぶために、当時普及し始めていたPDA(Personal Digital Assistant)が便利だと考え、米国パーム社の「パーム・パイロット」を手に入れました。ところが、勉強のために使うつもりが、そのツールにすっかりはまりこんでしまったのです。

●PDAとの出会いが本格的なプログラミングの世界へ


 なにやら“人生の転機”の匂いがしてきました(笑)。
 PDA向けソフトを紹介するサイトを1997年にオープンしました。いまでは当たり前のことですが、五つ星評価やダウンロードランキングを掲載し、月間100万PVを超える人気サイトになったんです。サイト名は、名字の牟田をもじって、Muchy.com(ムッチーコム)としました。
 ちなみに司法試験のほうは?
 卒業後、1年間浪人しましたが、ここは再び方針転換ですね。実はこのサイトの人気を知った出版社のアスキーから本を書かないかというオファーがあり、1999年に『Workpad+Palmシリーズ最強化パック420』という本を出しました。するとアマゾンのコンピューター書部門でベストセラーになり、その印税をもとに株式会社Muchy.comを設立したんです。それまで趣味でやっていたことを、法人化することで仕事にしたということですね。
 印税で会社設立というのも、めずらしい話ですね。本でだいぶ儲けたんだ(笑)。
 今回、この対談のお話をいただいたとき、BCNさんが「ものづくりの環」をキーワードにしていることを知りました。マーケットでユーザー、ベンダー、ディベロッパーの三者を結ぶ架け橋になるということは、まさに私がMuchy.comで活動していたときの思いとまったく同じでした。
 それはうれしい話ですね。
 当時、私は1万ページ以上あるMuchy.comのサイトをひとりで管理していました。なぜ、刻々と変わっていくデータをサイトに反映できたかというと、プログラミングによる自動化ができたからです。新たなレビューを書く以外は、すべてサイトの内容は自動更新します。
 この時期には、プログラミングの知識があるからこそ、業務を効率化・省力化できるということに喜びを感じるようになりました。
 幼い頃は、プログラムがコマンド通りに動くことに喜びを覚え、中高生の頃は人に楽しんでもらうことに喜びを覚え、長ずると業務効率化に喜びを覚えたと。すべて、ちゃんとつながっていますね。
 よく「変わった人生を歩んでいるね」と言われることがあるのですが、そこのところは首尾一貫していると思います。
 その後のMuchy.comはどうなったのですか。
 携帯電話のiモードの普及などによりPDA市場はシュリンクし、8年間続けたこのサイトも2005年に閉鎖しました。
 それまではコンシューマー向けにサイト運営を行ってきたわけですが、次は企業向けの仕事をしたいと思い、ブリヂストンソフトウェアというメーカーの情報処理子会社に就職したんです。
 対象をCからBに変えようと。でも、せっかく会社設立までしたのに、就職することについて抵抗感はありませんでしたか。
 それはありませんでした。むしろ、個人の限界を感じたこともありましたし、組織に所属することで、より大きな仕事ができるのではないかという期待感がありました。
 そこで得たのはどんなことでしたか。
 開発の基本を学ばせてもらったことですね。技術には自信がありましたが、開発のプロセスを教えてもらったことが自分にとってとても有益だったと思います。
 この会社には3年間在籍しましたが、ここで豆蔵の研修を受けたことがいまに至る大きな転機になりました。(つづく)

●オーダーメイドの鞄(オーソドキシー)


 牟田さんが愛用しているのは、顧客の要望を細かく聞きながら設計し、仕上げてくれるオーダーメイドの鞄だ。まさにコンサルティングを受けながら、自分に最適な一品をつくってもらえる。20年ほど前から使っているということだが、ここに写っているものは5年前に誂えた三代目。自身もコンサルタントであるため、そのプロセスに相通ずるものがあるという。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
  • 7/21 8:00
  • BCN+R

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