三浦春馬、ディーン・フジオカも名演!渋沢栄一と並ぶ大実業家“大阪の恩人”五代友厚の実像!

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「東の渋沢、西の五代」――放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』の主人公である渋沢栄一と並び称される明治の実業家・五代友厚。彼が設立に関わった代表的な団体や会社は次の通りで、それこそ“日本資本主義の父”と評される渋沢にも負けていない。

 ▽大阪株式取引所、大阪商業講習所(大阪市立大学)、大阪商船(商船三井)、大阪商法会議所(大阪商工会議所)、大阪青銅会社(住友金属工業)、川口運上所(大阪税関)、小菅修船場(三菱重工業長崎造船所)、堂島米会所・阪堺鉄道(南海電鉄)――。

 五代はこのように大阪財界の発展に尽力して“大阪の恩人”と評され、三菱の創始者である岩崎弥太郎と違い、渋沢と同様に財閥を作らずに、ひたすら日本の富国強兵に奔走。

 明治一八年(1885)九月に五〇歳の若さで病死した際、手元には借金と、その返済の猶予を求める手紙しか残されておらず、〈気前よく金を貸し、無理に返済を求めなかったため〉(『五代友厚と渋沢栄一 日本を飛躍させたふたりの男の生涯』/洋泉社)とされる。

 だが、その一方で明治時代の政治事件である「開拓使官有物払い下げ事件」にも関与して政商といわれた。

 はたして、どちらが彼の本当の姿だったのか――。

 五代は天保六年(1835)、薩摩藩士で儒者兼町奉行だった五代直左衛門秀堯の次男として生まれた。

 彼は藩主である島津斉彬の開明的な思想に影響され、二一歳で長崎伝習所の生徒となって勝海舟らとともに航海術や測量術などを習得。

 文久二年(1862)に幕府が上海に市場調査で派遣した使節船「千歳丸」に水夫として潜り込み、帰国後、生麦事件の賠償を求めるイギリス艦隊が横浜を出帆したとの知らせを聞き、翌年六月に急遽、地元に戻り、蒸気船「天祐丸」の艦長として松木弘安(のちの寺島宗則)と鹿児島の守りについた。

 ところが、イギリス軍が五代の船を含む薩摩藩の船三隻を七月、宣戦布告もなしに拿捕。五代は松木とともに捕虜となり、薩摩藩が曳航される三隻を確認すると、沿岸の砲台が火を噴き、薩英戦争が勃発した。

 クーパー提督は当時、五代に薩摩の実力を尋ね、「わが藩は武をもって鳴り、陸士一〇万の鉄騎は一人として生を欲する者はいない」と返されて上陸を断念したとされる。

 とはいえ、薩摩藩は城下に多大な損害をこうむり、結局は賠償金の支払いに応じて戦争はただちに終結。

 五代らはそのままイギリスの船で横浜に連行されて釈放されたが、敵方に日本の国情を伝えたとの誤った情報が間もなく流れたことから薩摩に戻ることができず、潜伏生活を余儀なくされた。

 だが、元治元年(1864)には誤解が解け、彼は藩に富国強兵と海外留学生派遣などを献策。

 慶応元年(1865)三月に藩が五代らを引率者に任命し、留学生一四名をヨーロッパに派遣し、イギリスの紡績機械メーカーに工場の設計と技術者の派遣を依頼。

 鹿児島に日本初の洋式機械紡績工場(世界遺産の旧鹿児島紡績所技師館)が建設され、五代はその後も長崎で武器の買い付けなどに従事し、明治維新が実現すると、新政府の外国事務局(外務省)幹部職員の一人として大阪で勤務することになった。

 彼は外交交渉のかたわら、大阪港の整備などを進め、大阪府判事を兼ねるようになると、大阪に造幣寮(局)を開設。

 明治二年(1869)五月に横浜に転勤を命じられたことから二ヶ月後に退官し、実業家に転身した。

 その背景に口が達者なだけの新政府の官吏らに不満もあったとみられる一方、大阪に愛着が芽生えていたのだろう。

■大隈重信と伊藤博文の対立に巻き込まれた!?

 五代はその後、鉱山業や製藍業などに成功し、明治一四年(1881)、大阪財界を挙げたプロジェクトとして関西貿易社を設立して総監に就任。

 同社が輸出用商品として北海道の海産物に目をつけた一方、同年暮れの北海道開拓使の解散が確実となる中、長官で薩摩藩出身の黒田清隆は、開拓使が運営する現業部門の職員が失業して路頭に迷わないために、その受け皿として北海社という会社を設立させた。

 そして、同社に開拓使の倉庫、桑園、牧場、麦酒醸造所、葡萄酒醸造所、缶詰製造所などの官有物を払い下げようとし、その価格が当時の金額で三八万円余。

 これは破格の安さで、無利息三〇年賦という好条件でもあったが、これが問題となった。

 しかも、北海社が北海道の海産物などの販売権を一手に握る予定だったため、五代の関西貿易社のダミーという噂が流布。

 当時の道民にすれば、開拓使の財産が大阪財界に乗っ取られ、商権まで奪われることを意味し、報道機関が一大スキャンダルとして扱い、黒田と五代は窮地に陥った。

 結局、払い下げは中止されたものの、誰が疑惑をリークしたのか。

 当時、新政府内では大隈重信(佐賀藩出身)と伊藤博文(長州藩出身)らが対立。

 伊藤らは官有物払い下げ事件を大隈らの反政府陰謀であるとして、彼と、その一派を罷免した(明治一四年の政変)。

 つまり、五代は政争に巻き込まれた可能性が高い。

 また、関西貿易社が北海社に払い下げを求めたのは、岩内炭坑と厚岸けし官林だけだったことも判明。

 五代に対する嫌疑は冤罪だったようにも思えるが、事態はむろん、そう単純ではない。

「甲乙両社」と社名は匿名になっているものの、北海社(甲社か)と関西貿易社(乙社か)が最初から合併を前提にし、世論の攻撃をかわすために、それぞれ別会社でスタートすることになったという史料の存在も明らかになっている。

 だとすると、やはり疑惑の通り、北海社は関西貿易社のダミーということになり、この事件は五代の唯一の汚点と言えるのかもしれない。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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  • 7/9 12:00
  • 日刊大衆

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