一度も会ったことない男が、朝7時に自宅前までやってきて…?ドアを開けた瞬間、女が息をのんだワケ

東京で暮らしていれば、受けられる恩恵はたくさんある。

流行りのレストランに、話題のエステ。雑誌に載っている可愛い靴やバッグだって、すぐ手に入る。

― 東京こそ、私の生きる場所。これからもずっと。

そう思っていたアラサー女は、突然やってきた“転落人生”で、東京を離れることになり…。

◆これまでのあらすじ

仕事も彼氏も、家も失って、東京から逃げるように実家へと戻ってきた千佳。出戻り組の先輩や、ずっと田舎で暮らし続ける幼なじみとの再会で、少しずつ気持ちが前を向きはじめる。

そして“ある男”とも、会うことになって…?

▶前回:夜20時、自宅玄関前に謎の男が突っ立っていた。暗がりに向かって、恐る恐る声をかけた結果…


― そろそろ部屋に戻ろうかな。

夕食を終え、仕事部屋として借りている離れで調べものをしていると、時計はすでに24時をまわっていた。

エアコンがついていない室内は、夜になっても蒸し暑い。だから仕方なく網戸にしていた窓を、閉めようとしたときだった。

カーテンをまくった私は、思わず「キャッ!」と声をあげてしまったのだ。

そこには、部屋の明るさに引き寄せられてやってきた無数の虫が、びっしりと張りついていたのである。

「もう、虫だけは本当に無理…!」

泣きそうな声でボソッとつぶやく。

東京で暮らした17年間は、虫に遭遇することなんて滅多になかった。そう思うと、また少し気持ちが沈む。

それだけ虫嫌いな私だから「田舎暮らしなんて向いていないし、ありえない」と勝手に想像していた。

だから“地元での新たな出会い”によって、苦手を克服しなければならないときが来るなんて、考えてもみなかったのだ。

千佳が新たに出会ったのは…?

千葉県南房総市にある実家に帰ってきて、もうすぐ2ヶ月が経つ。

初めはカフェもレストランもなく、一番近くにあるコンビニでさえ片道20分も歩かなくてはならない環境に辟易していた。けれど今は愚痴をこぼすことも減り、それなりにうまく暮らせていると思う。

というのも、私より一足先に地元に帰ってきて、立派なグランピング施設の運営を任されている板倉将生。

それと35年間この地に住み続けている、エリート銀行マン兼農業見習いの鈴木衛。

彼らが『実家に帰ってきています』という私の投稿を見て、メッセージをくれた。そして二人と再会できたことが、鬱々としていた気持ちを前に向けるきっかけとなったからだ。

それともう一人。

メッセージを送ってきた三人目の男・奥田悠斗も、私を前向きな気持ちにさせてくれたのである。



1年前。

“雑穀を使ったレシピ10選”という雑誌の企画を任されて、専門家へ取材をした。それをSNSに投稿したら、メッセージ付きでフォローしてきてくれたのが悠斗さんだったのだ。

悠斗:『はじめまして!雑穀の特集拝見しました。僕も雑穀の生産者なので、とても興味深かったです』

嬉しい内容のメッセージだったけれど、面識のない相手に返信するかどうか少し迷う。

そこで、どういう人なのかを知るために、悠斗さんのSNSのページへと飛んでみると「あっ!」と声が漏れた。彼は、私の地元で雑穀栽培をしていることがわかったのだ。

しかも東京での暮らしを手放して、わざわざ引っ越してきたというから驚いた。

投稿を見ても、怪しい感じはしない。それに“地元つながり”になんとなく親近感を覚えた私は、軽い気持ちで悠斗さんのことをフォローバックしたのだった。

千佳:『読んでいただき、ありがとうございます。悠斗さんって、南房総市に住んでるんですね!私の実家もそのあたりなんです』

勢いに任せてこんなメッセージも送った。そして他愛ない地元トークが何度か続き、お互いに同い年であることがわかった頃には、警戒心はすっかり溶けていたのだ。

それからは、それぞれの投稿に“いいね”をし合ったり、ごくたまにメッセージを交わしたりする程度の関係が続いていた。


そして彼との関係性が少しずつ変わり始めたのは、衛が家を訪ねてきた日の、夜のこと。

悠斗さんが送ってきてくれたメッセージに、私がようやく返信したのがきっかけだった。

悠斗:『千佳さん、お久しぶりです。こっちに帰ってきてるんですか?』
千佳:『はい、休職中っていうのかな。しばらくは実家にいる予定です』
悠斗:『もし時間があったら、僕の畑見にきてください!って、いきなりすぎましたね』
千佳:『いえ、ぜひいつかお邪魔させてください』

このときはまだ、彼からの提案にあまり乗り気ではなかった。

だが実家に帰ってきてからというもの、母が好んでいる雑穀を混ぜて炊いたご飯のおかげなのか、体や肌の調子がとてもいい。それもあってか、雑穀の存在はひそかに気になっていた。

― 雑穀って、なんかいいかも!

一度興味を持ち始めると、徹底的に調べたくなるのはライターのさがなのかもしれない。いつしかネットで雑穀に関する中古本を購入し、独学で学び始めたのだった。

千佳:『悠斗さんの畑、見に行ってもいいですか?』

私からそう連絡したのは、彼が提案をしてきてくれてから、1ヶ月以上も経った頃だった。

SNSでしか知らない、面識のない男と会う決意をした千佳は…

そうして悠斗さんが実家の前にやってきたのは、朝7時ちょうどだった。

待ち合わせの時間を決めるとき、ちょっと早すぎないかと思ったけれど、きっとこれが農業をする人にとっての普通なのだろう。

軽トラックの荷台には、作業で使うためのさまざまな機械やコンテナ、布の袋のようなものが積まれている。それをまじまじと見ていると運転席のドアが開いて、作業服姿の彼が降りてきた。

「はじめまして!こんな格好ですみません。車もトラックだし」

「いえ、こちらこそ迎えにきてもらっちゃって。ありがとうございます」

SNSには横顔や後ろ姿しか載せない悠斗さんの顔を、正面から見たのは初めてだった。

― ちょっと待って、タイプなんだけど。

そういうつもりで声をかけたわけではなかったから、動揺して顔が赤くなった。それを見られないよう、そそくさと助手席に乗り込む。

「僕ね、もともとIT関連の会社で働いてたんですよ。ものすごく忙しい時期が続いて体調を崩して、辞めたのが5年前かな」

「それからこっちに?」

「そう、健康ってやっぱり食事が大事でしょ?マクロビとか、食生活をいろいろ変えてみて行き着いたのが雑穀だったんだよね」

「私も今、雑穀を食べているおかげかすごく体調がよくて。それで、本を読んで勉強してるんです」

彼の声は低くて優しくて、なんだか心地がいい。しっかりとした骨格に笑うと細くなる目はドンピシャで好みだ。つい、本来の目的を忘れて浮かれた気分になってしまった。

「着いたよ!」

我に返って軽トラックを降りると、そこには東京ドーム3個分はあるという畑が広がっていた。

「ここ全部、悠斗さんの畑なんですか?」

「そう。今は大豆の種まきをするために除草したばかりだから、何もないんだけどね」


同い年の彼が一人で見知らぬ土地に移住してきて、畑を手に入れ、今ではスーパーでもよく見かける雑穀の生産者になっていた。

― これって、すごいことだよね。

そんな畑を見ているだけで、悠斗さんの熱い思いみたいなものが感じられた。

「千佳さんは、ここにいる時間を無駄だとか意味がないとか感じてない?」

「…はい、少し前までは割と」

「正直だね。俺はどうしてもここに来たかったんだ。やりたいことができるのは、ここしかないと思ったし」

「悠斗さんは、選んでここにいるんですね」

板倉先輩も、衛も悠斗さんも。みんなやりがいやプライドを持ってここにいて、それがすごく格好よく思えた。

「もちろんそういう場所は人によって違うんだろうけど。千佳さんにとっての“ここ”って場所は、今も変わらず東京なの?」

「本当のことを言うと、地元には戻ってきたくなかったって思うことが多いです。でも最近、東京にいたときの自分を反省したりすることも増えてきて。だからって、ここにいるのが正解なのかもまだわからなくて…」

東京にいたときは、傲慢で頑固でいつもイライラしていた。地元に帰ってきてからは、いじけて「ここではなにもできない」と文句ばかり。

結局、東京にいようが田舎にいようが、それが問題ではないような気がする。

なにが正解なのかがわからず、小さなため息が漏れた。

「ねえ。時間があったら土いじりしてみない?“アーシング”って言って、土に触れると癒し効果があるらしいんだ」

彼に促され、その場にしゃがみこんで土に触れる。大きく深呼吸をしてみると、土の香りと風の気持ちよさに、心のコリがほぐれていくような不思議な感覚がした。

― ああ、なんか気持ちが落ち着く。

この日を境に、私は悠斗さんの畑に通って手伝いをするようになった。そして私は、完全にマクロビや雑穀の虜にもなったのだ。

それから3ヶ月。

「千佳さん、僕と付き合ってくれませんか」

畑を手伝ううちに距離が縮まり、悠斗さんから告白されてしまった。

― 彼とは付き合いたい、けど…。

すぐに返事をすることができなかったのは、いつまでたっても虫嫌いが治らないからではない。

ほかに、理由があるのだった。


▶前回:夜20時、自宅玄関前に謎の男が突っ立っていた。暗がりに向かって、恐る恐る声をかけた結果…

▶Next:7月14日 水曜更新予定
田舎暮らしにも慣れてきた千佳が、選んだ道とは?

画像をもっと見る

関連リンク

  • 7/7 5:04
  • 東京カレンダー

スポンサーリンク

記事の無断転載を禁じます