『ウォルト・ディズニーの約束』、映画『メリー・ポピンズ』製作に隠された「夢」と「現実」の秘話

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今なお世界中で愛読され続けている児童文学シリーズ『メリー・ポピンズ』。1964年のミュージカル映画作品はアカデミー賞で5部門を受賞し、ディズニーを代表する映画作品である。しかし映画化までには長い歳月を経ていたことを知る人は少ないだろう。名作誕生の裏には、二人の天才たちによる隠されたドラマがあったのだ。

■『メリー・ポピンズ』映画化企画

(C)2013 Disney Enterprises, Inc.

1955年アナハイムでの開園以来、子どもから大人まで世界中の人々を魅了し続ける「ディズニーランド」。来園者に夢と希望を与えるこの大テーマパークの創始者ウォルト・ディズニーは、ある物語の映画化をおよそ20年間もの間切望していた。イギリスの作家パメラ・トラヴァースが著した全8冊からなる児童文学シリーズ『メリー・ポピンズ』がそれである。ディズニーがなぜそこまでしてこの作品の映画化を望んだのか。その製作過程が描かれる『ウォルト・ディズニーの約束』(2013)では、ディズニーと原作者トラヴァースとの間で繰り広げられた秘話が描かれる。

本作の物語は、新作が書けず、さらに金策に困っていたパメラ・トラヴァース(エマ・トンプソン)が20年の時を経て、ディズニー製作による映画化をしぶしぶ承諾しようかとロンドンからロサンゼルスへやってくるところから始まる。社交性のない彼女に脚本家や作曲家たちは困惑を隠せない。ひとまず脚本内容の確認と加筆に取り掛かるのだが、主演俳優はNG、子ども騙しのアニメーションも軽薄なミュージカル化も断固拒否する姿勢の彼女に天下のウォルト・ディズニー(トム・ハンクス)ですらお手上げ状態。そもそもテーマパーク経営という資本主義を象徴するような存在のディズニーをパメラは毛嫌いしている。

映画化を承諾するどころか、脚本の細部にまでこと細かく口出しをし、企画自体が頓挫寸前である。ディズニーがそれでも映画化を諦めないのは、原作のファンである自分の娘に映画化を約束していたからなのだが、しかしパメラにもまた簡単には承諾出来ない事情があった。彼女はなぜそこまで執拗にアニメーションやミュージカルの世界を嫌うのだろうか。そこには『メリー・ポピンズ』を執筆する直接の要因となった父親との大切な思い出が隠されていた。

■父トラヴァースとの記憶

(C)2013 Disney Enterprises, Inc.

メリー・ポピンズが乳母としてやって来るバンクス一家の家長は厳格な銀行員としてキャラクター造形されているが、実はパメラの父トラヴァース・ロバート・ゴフもオーストラリアの銀行員であった。しかしバンクスとは違い、気さくな性格のトラヴァース(コリン・ファレル)は常に子ども想いの心優しい人であった。ところがトラヴァースは苦しい現実から逃避する癖があり、アルコール中毒者になった結果銀行をクビになってしまう。幼いパメラに対して面目ないトラヴァースは、そんな辛い現実とは違うもうひとつの夢の世界の存在を教えるのだ。それが彼女に詩作の才能を芽生えさせ、後々まで深い影響を与えることになる。そして、酒浸りの父が亡くなり、心に深い悲しみを刻むことになったパメラは、父親との「夢の世界」を実現するために小説家への道を歩み始める。

父親のトラヴァースという名を姓にしているのは、パメラ・トラヴァースとして生きることで父の存在を一生忘れないためである。彼女は過去の深い悲しみに自分を縛り付けることで、それを自らの創作活動の動力源として、歴史に残る児童文学作品『メリー・ポピンズ』を執筆した。パメラにとって父親との美しい思い出の全てが込められたこの作品のバンクス一家は家族も同然である。ウォルト・ディズニーにとってのミッキー・マウスがそうであったように。さらにディズニーがこの作品に固執したのは、自身にもまた父親との葛藤があったからだ。

誰にでも個人的な物語はあるもだ。他人を寄せ付けないパメラが唯一、専属の運転手のラルフ(ポール・ジアマッティ)にだけ心を開いてしまったのは、彼が身体の不自由な娘のことを話すその口調に心優しさを感じたからだ。ロサンゼルスに来てからというもの、パメラは過去の記憶の追想に耽ってばかりいる。そのセンチメンタリズムに抑制を利かせるエマ・トンプソンの演技がほんとうに素晴らしいのだが、トム・ハンクス演じるディズニーも負けてはいない。アニメーション・パートの存在を知らされ、契約を破棄してイギリスに帰国したパメラの元を逆に訪れたディズニーが、自分のことを誤解していると言って父親との幼少期の葛藤のエピソードを語って聞かせる姿にもまた人間味が溢れていた。と同時に創作者としてのディズニーには、そうした過去の悲しみをいかに現実の希望として描くことが出来るのかが創作者としての使命であることを誰よりも理解している。ディズニーは、パメラと父親との思い出を慈しみながらも、それを自らの夢の帝国によって作品化することに価値を感じているのだ。

■過去への決別と夢への憧れ

(C)2013 Disney Enterprises, Inc.

これまで筆者はウォルト・ディズニーという人物の思想にそこまで共感出来ないところがあった。確かに誰にでも個人的な思い出や過去のトラウマがあるのは当然で、それが創作者ともなれば、創作の源泉となるのは確かだが、辛い過去や現実から目を逸らして夢の世界へ現実逃避する作品世界には、この現実を生き抜くための骨格と体力がないように思うのだ。実際、ディズニーランドを訪れた時、この夢の世界からの帰り道では「魔法」が解けてしまうのかと考えると現実世界から完全に隔絶された夢の世界に複雑な想いをする。なぜ人々は一時の夢をみることにばかり躍起になるのだろう。なぜ現実を直視しようとしないのだろう。本作のウォルト・ディズニーは夢の世界への逃避者でしかないのだろうか。だが、それでもディズニーは言う。苦しい現実を生きる世界中の人々に「夢と希望」を与えたいのだと。

では、パメラはどうだろう。『メリー・ポピンズ』のプレミア試写会でみせられる映画と自身の原作とのずれはやはり否めない。彼女が書いた世界は決して夢の世界の話ではない。彼女がこの小説を執筆したのは、父親のためでさえあった。ロンドンの自宅を訪ねてきたディズニーは映画化を実現することで彼女に過去の悲しみに別れを告げようと促す。この天才的アニメーターの言葉は正しい。パメラはこれまでバンクス一家の物語を溺愛するあまり、自分の懐にしまい込みすぎていた。そのままでは過去のトラウマがに捕われ続け、現在を生きる自分に生きづらさを感じている。その重荷を軽くする手段としてディズニーは、あくまでひとりの創作者のスタイルとして夢という空想の世界を活用していたのだ。それは父トラヴァースも同様だった。

映画化までのこの20年間という歳月は、過去と現在を常に行き来しながら、深い悲しみに絶え続けたパメラ・トラヴァースの精神のリハビリでもあったのだ。そのリハビリを終えて、スクリーンに映る映画版『メリー・ポピンズ』をみながら、その作品の出来栄えに複雑な涙を流したのは、結局作品の一部にアニメーションが取り入れられたからでも、バンクスのキャラクター造形に不満を抱いたからでもない。この映画化作品が自らの過去への決別という節目になったからだ。パメラ・トラヴァースという人物は、実はウォルト・ディズニーよりも夢の世界への憧れが強い人だったのだろう。そう想うと、映画のラスト、テーマ曲「Chim Chim Cher-ee」のピアノ演奏の憂愁を帯びた旋律が涙を誘って仕方なかった。

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