入籍直前に姿を消した花嫁。6年後、男が知った“婚約破棄”の衝撃的な真相とは

夏・第2夜「傷ついた男」

香澄と出会ったのは、18歳の春、早稲田大学文学部の戸山キャンパスだった。

僕が選択したそのイギリス文学のクラスは、どうやら単位の取りづらい、いわゆるハマりクラスとして有名だったらしい。初日から教室には10人ほどしかいなかった。

3月に卒業した神奈川の男子校は、医学部や国立志望が多かった。だから、僕のように神奈川から距離がある早稲田の、しかも文学部に入学する者は少数派だった。

もともと友達が少ないわけではなかったが、騒ぐよりも本を読んでいるほうが好きという性格。

入学して数週間で、ハマり科目情報を収集したり、サークルで新しい仲間を作ったりすることは難しかったのだ。

「瀬田聡介、くん?先生、呼んでるよ。せっかく出席したんだから、お返事したら?」

傾斜がついた、大教室の後ろの席から、突然、女の子がささやいた。

焦って振り返ると、細くまっすぐな指が僕のテキストの名前を差している。

桜色のブラウスの袖が透けて、華奢な手首と、そこに巻きついた細い金色の時計が見えた。

香澄と名乗ったその子とは、それをきっかけに話すようになり、やがて彼女は僕の世界の中心になった。

今思えば、あの日が12年におよぶ長いラブストーリー、あるいは悲劇の始まりだった。

聡介と香澄は、少しずつ近づいていくが…?

恋の始まりと終わり

女の子に慣れていない僕が、よくも香澄に告白し、付き合うまでこぎつけたと、今でも不思議な気持ちになる。

でも、当時は必死だった。作戦もなにもない。告白などしなくても、きっと気持ちはバレていただろう。

全身全霊で大好きだった。香澄と話すのが楽しくて、嬉しくて、そのために大学に通っていた。

僕たちは同じ授業を週に3コマとっていることがわかり、週に3回は顔を合わせることができた。

身の振り方次第では誰とも関わらないで通えるようなあの大学で、その状況はとても幸運で、不器用ながらも初恋の女の子へのアプローチを可能にした。

とにかく、僕は18歳の春、生涯で一番大切な女の子に出会い、夏に告白し、付き合うことができたのだ。こんな奇跡があるのかと思った。

一緒に高田馬場の書店でアルバイトをして、香澄が入りたがったテニスサークルに入り、共通の友人も増えた。

僕の生活のすべてに香澄がいた。

香澄を失ったのは、梅雨の雨が降る肌寒い日だった。

僕らは25歳になっていた。

勤めはじめた出版社は激務で、外資系航空会社のグランドスタッフになった香澄は平日休み。時間的なすれ違いが多く、なんとか時間を見つけて一人暮らしの僕の部屋で会うことが多かった。

二人がいずれ結婚するのは、あまりにも当然の話だったから、ちょうど部屋の更新に合わせて大きな部屋にし、籍を入れようと決めた。

お互いの両親にも紹介済みだったし、友人も僕たちを夫婦のように扱った。

しかし、新しい部屋の契約の日、香澄は約束の不動産会社に来なかった。

1時間ほど待ったものの、彼女は現れず、しかたなくそこを出た。電話もつながらず、途方に暮れたことを鮮明に覚えている。

冷たい雨の中、どうやって部屋に帰ったのかは、記憶にない。

数日後、香澄のご両親から連絡があり、彼女が会社を辞めて実家の金沢に帰ること、僕とは事情があって結婚できないことが突然通告されたのだ。

僕が金沢の実家を何度訪ねても香澄は、決して会ってくれなかった。

何度電話しても、電話に出てくれなったが、一度だけ通じたことがあった。

しかし、彼女は電話口で「聡介、ごめんね。許して。私のことは忘れて」と言っただけ。

それきり音信不通になり、地獄のような半年を経て、香澄にフラれたのだと、僕はようやく理解した。

香澄と出会ってから、面白い本を読んだとき、映画を見たとき、旅できれいな景色を見たとき、お互いの感想を伝えあうのが常だった。二人の感動の種類と大きさは、驚くほど似ていた。

僕はそれを香澄と等しく交換することで、優しく温かい気持ちになり、孤独を癒してきたのだ。

そんなふうに、恋人であると同時に親友だった彼女を失うのは、辛い経験だった。

友達の多くは、順風満帆に見えた二人が別れたことで大いに混乱し、同情し、適切な距離を置いてくれた。

もう恋なんてしない、なんて決めた覚えなんかない。

ただ不意に襲ってくる気が狂いそうな喪失感に歯を食いしばって耐えた。

香澄が今どうしているかを確かめたいという衝動を、男友達と飲むことで紛らわしているうちに、気がついたら5年が経っていた。

そして30歳になった去年、僕は、ようやく「二人目の女の子」に出会った。

必死に前を向く聡介に訪れた幸運と、悲運とは?

もう二度と

「聡介くん、式場の見学の予定、週末に入れておいたからね!寝坊しちゃだめだよ、ジャケットくらい着てきてね」

元気のいい涼花の電話は一方的に切れ、間髪入れずに都心の結婚式場のリンクがLINEで送られてきた。

オープンしたてだという都心の式場は、涼花がどうしてもと熱望している場所だ。リンクを開くと、真っ白いチャペルの前でフラワーシャワーを受ける美男美女の写真が写る。

涼花は「絶対に20代で花嫁になる!」と宣言し、最近は毎週のように式場の見学予約を入れていた。

その無心の情熱に、僕はいつも感心してしまう。自分が失くしてしまったその涼花のキラキラした光に、惹かれていんだと思う。

涼花は、同じ会社の違う部署で働いていたが、どういうわけか彼女は僕を気に入って、積極的にアプローチしてくれた。カジュアルなデートを繰り返すうちに、なんだか自然にそういうことになった。

その展開に、僕が一番驚いていたけれども…。周りが、こちらがびっくりするくらい喜んでくれて、それほど僕は、みんなに心配をかけていたのだと知った。

― 涼花を大切にしなくてはならない。無邪気な笑顔を曇らせたくない。

かつての自分のような絶望を味あわせるなんて、想像もできない。

僕は、スマホに1件の新着メッセージが届いたあの瞬間まで、そう思っていた。

何気なくタップした指が、凍りついた。

それは香澄からの、6年ぶりのメッセージだった。

そこからは、モラルや理性が吹っ飛んだ。

涼花への情愛は、押し殺していた香澄への恋心の前では、あまりに無力だった。

「あなたが結婚してしまうとミカに聞いて…どうしても我慢ができなくて」

再会した日、そう言って香澄は泣いた。出会った頃と変わらない華奢な肩が震えていた。

それで僕は、あらゆることを、一瞬で決心した。

もう離れるわけにはいかない。もう二度と、僕の人生で香澄を失くすわけにはいかなかった。

すぐさま涼花に土下座した。彼女は混乱し、絶叫し、懇願したが、僕に選択肢はなかった。

新生活のために貯金していた200万円を涼花に渡し、同僚でもある彼女に対するけじめのために会社を辞めた。

そして生活のためにすぐに新しい仕事を始めた。金沢から月に数度訪ねてきてくれる香澄のために、少しでもできることはしたかったのだ。

香澄がようやく戻ってきたのだ。僕の人生に。

「やっとつながった!聡介、驚いたよ、転職したんだって?元気なの?この前のサークルのOB会にも来ないから、心配したんだよ」

「あー、ミカ、ごめん。ちょっと…いろいろあって」

寝起きで、ろくに相手も確かめずに電話に出てしまったことを後悔しつつ、僕はベッドから起き上がった。

「元気ならいいんだよ、みんな最近連絡とれないって心配してたから…。彼女さん、涼花ちゃんだっけ?元気?来年の結婚式はみんなで行くからね!」

「…ミカ、そのことなんだけど…」

僕は、一瞬言いよどむ。大学時代の仲間は皆、僕と香澄の顛末をほとんどすべて知っている。

「実はさ…迷ったんだけど、私、聡介には今度こそ幸せになってほしいから、言っておきたいことがあって。

先月、香澄に会ったの。珍しく上京してくるから会わない?って連絡がきて。

そこでさ、言っちゃったんだよね、聡介が来年結婚するってこと」

「…ああ、うん、いいんだ、ミカは悪くない」

するとミカは、さらに告白を続けた。

「そうじゃないの。私、聡介に忠告したいのよ。

当時はとても聡介に言えなかったんだけど…香澄、6年前に聡介と別れたとき、金沢に帰ったなんて言ってるけど、あれ嘘っぱちなのよ」

「嘘っぱち?」

僕は律儀に、その言葉をオウム返しした。

「うん。あの時、香澄、ミュージシャン崩れの男と浮気してて。なんかその男がニューヨークに行くとか言って、なんとあの子、のぼせてついて行っちゃったのよ。多分、OLなんかしてて…退屈だったのね」

さすがに、彼氏に飽きていて、という言葉は気を遣って飲み込んだようだった。

「で、結局1年くらいで戻ってきて。金沢で実家の旅館を手伝ったりしてたみたいだけど、3年前に地元の男と結婚したってわけ。幼馴染だったらしいけれども。

でもね、先月会ったときにピンときたの。あの子、また退屈してるのよ。

それで、聡介が結婚するって口がすべっちゃったとき、私あとからしまったって思って。

また悪い癖が出て、聡介にちょっかい出すんじゃないかって。昔の男も、自分のファンでいてほしいタイプだから」

僕は、何も言わずに電話を切った。ミカの言葉は、唐突に、なかったことのように消える。そのまま電源も落としてから、ベッドに放り投げた。

時計を見ると、土曜日の10時だった。梅雨の晴れ間なのかカーテンの隙間から陽光が降り注いでいる。

ゆっくりと伸びをすると、キッチンに立ち、音楽をかけると今夜のディナーの下ごしらえを始めた。香澄の好物のスープは、煮込み時間が肝心だ。

今日は2週間ぶりに、香澄が上京してくれる日だった。

スピーカーからタイミングよくリストの「愛の夢」が流れる。彼が恋した伯爵夫人を想って作った曲だ。

「…僕はもう、どんな理由があったとしても、香澄を失うわけにはいかないんだよ」

つぶやきは、誰にも届くことはない。

どんな香澄だとしてもかまわない。僕はもう二度と彼女と離れるわけにはいかないのだ。あの地獄のような孤独に、戻るなんてまっぴらだった。

そんなことになるくらいならば、僕は。

「もうずっと一緒さ…死が二人を分かつまでね」

僕はただ無心で、包丁を動かし続けた。

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2021/6/14 5:06

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