「もう恋はしないと、誓ったのに…」34歳医師が惹かれていく、年上女性の魅力とは

憂鬱(ゆううつ)―。

まるで曇り空のように、気持ちが塞ぎ込んでしまうこと。

失恋を経験した人だったら、少なからず経験したことがある感情だろう。

”ドクターK”と呼ばれる男も、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。

彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。

恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?

◆これまでのあらすじ

代々病院を経営する家に生まれ、恋愛の自由が許されていない医師・影山修史(34)。彼は、女性に対して本気になることはなく、その場限りの付き合いでいいと割り切っていた。ある時、同僚の明石の誘いでクルージングに出かけた影山は1人の女性と出会うが…。

▶前回:「合鍵、もらってもいい?」医師が25歳の彼女と結婚を考えた矢先、実家に猛反対されたワケ


5年前の4月、僕は同僚の明石に誘われ、クルーザーで初島に向かっていた。

港を離れ、見える景色はすぐに水平線と雲だけになった。非日常的な空間に身を委ねていると、同僚の明石が声をかけてくる。

「どうだ、影山。最高だろ?あと1時間くらいで初島だ」

船は半年ほど前に明石の父親が購入したものだ。

今日のクルージングは明石と僕のほかに、彼の父親の友人を含めた7人が集まっていた。

その中には、「愛子さん」と呼ばれる、先ほど僕たちに声をかけてきた女性と、彼女のことを「ママ」と慕う綺麗な女の子が2人おり、明石の父親がその女性たちを紹介してくれた。

「影山くん、こちらは、わたしがよく行くクラブの愛子ママと、そこの女の子。今度店の方にも行くといい」

聞けば、愛子さんは銀座8丁目の並木通り沿いで高級クラブを経営しているという。

「親父のボトルもあるし、今度一緒に行こうぜ」

明石はどうやらママの連れてきた女の子の1人を気に入ったようで、僕を店に誘ってくる。

しばらくすると、沖で船は停止した。明石は水着に救命具をつけると、海面にSUPを下ろして、女の子2人と遊び始めた。明石の父親とその友人たちは、投資の話で盛り上がっている。

「カゲヤマはやらないの?」

はしゃぐ彼らを船上から眺める僕の元に、愛子さんがやってきた。

いつの間にか僕を「カゲヤマ」と呼ぶ愛子さんの人懐っこさは、きっと仕事で身につけたものなのだろう。

「水着忘れちゃって…」

濡れても構わないロンハーマンのボードショーツを穿いていたのに、何故かとっさに僕は嘘をついた。

きっと彼女は覚えていないだろうけど、これが初めての、僕たち2人きりの会話だったと思う。

愛子がプロだと分かっていながらも、気になる影山は…



クルージングから2週間ほど経った日の夕方。

「あら影山先生、もうお帰りですか?」

医局を出ようとしていたところ、同じ科の看護師に声をかけられた。普段なら報告書などの書類仕事を遅くまでこなし、退勤するのは20時を余裕でまわる。

「ええ、今日はちょっと用事があって」

看護師を軽くあしらい、白衣をクリーニングに出して、勤め先である南新宿の病院を出ると、僕はタクシーに乗り大急ぎで富ヶ谷の自宅に戻った。

シャワーを浴び、カジュアルなシャツとジャケットを手に取る。今夜は来月結婚する先輩のために、明石が企画した食事会なのだ。

先輩医師2人と明石、そして僕を入れた男性4人に対し、愛子さんが女の子を連れやってくるという。

時間より20分ほど遅れ、指定された店に着いた。

場所は西麻布。雑居ビルの4階に看板も出さずひっそりと暖簾を構える老舗の鮨屋だ。

店に入ると、奥のテーブルを明石たちが陣取っていた。

「お疲れさま、カゲヤマ。ほら、座って!」

僕が愛子さんを見つけるよりも早く、彼女が僕に気づき、席まで案内してくれる。

愛子さんがこの日連れてきたのは、この前のクルージングに来ていた2人と、あともう1人。どの子も上品なワンピースに身を包み、女優と言っても疑わないほど綺麗な子ばかりだ。

愛子さんは、茶色味がかった髪を無造作にまとめあげ、サマーツイードのジャケットを羽織っている。パヴェダイヤがぎっしりと詰まったカルティエの宝飾時計をつけてはいるが、シンプルで洗練された装いは、僕が思っていた銀座のママのイメージとはかけ離れている。

明石の話では、愛子さんの年齢は僕らよりもだいぶ上らしい。

「カゲヤマ、着いたのが一番最後だったから、私の隣しか空いてないわよ」

愛子さんはそう言って、僕のグラスに慣れた手つきでビールを注いだ。

「愛子さんの隣で光栄です」

僕は正直な気持ちを、思わず口にしていた。

「愛子さん、こいつ女に騙されやすいタイプなんで、いろいろ教えてやってよ」

明石が横から茶々を入れる。

気恥ずかしくて話をそらそうと、僕は主役の先輩に話を振った。

「そういえば、先輩の結婚相手ってどんな方なんですか?」

聞くところによると、彼の地元である金沢ではよく知られた、有力者の娘と結婚するらしい。

「実家の病院を継ぐために帰ることになるし、こうして自由に遊べるのもあとちょっとだな」

そう話す先輩の姿は、まるで未来の僕を見ているようだった。


丁寧な仕事が施された鮨がひとつ、またひとつと提供されるごとに、お酒が進んで話も盛り上がり、いい感じで酔いが回ってきた。

ふと僕は、愛子さんがいないことに気づき、店内を見渡す。

店の大将が、彼女を探している僕に気がついて「先ほど、外の空気を吸ってくる、と出られましたよ」と教えてくれた。

僕は彼女の様子が気になって、思わず外へ出た。

愛子のあとを追う影山。彼女の意外な悩みを知ることに…

僕が、店の階段を駆け下りると、彼女が、入り口すぐ横の花壇に腰掛けて夜空をぼーっと見つめている姿が目に入ってきた。

「愛子さん、どうしたの?飲みすぎた?」

声をかけると、我に返ったように彼女は立ち上がり、ふらつきながら僕の前に立った。


「私、普段はこんなに酔わないのよ。酔ったら仕事にならないもの」

そう言って伏し目がちに笑うが、その表情は酒の席でのそれとは明らかに違っていた。

「……実はさっき嫌な電話がかかってきて。お酒で気を紛らわそうとして、少し飲みすぎちゃった」

― 年上なのに、どこか子どもっぽくて可愛い人だな。

そんなふうに思うなんて、僕も少し飲み過ぎたのかもしれない。

「一部のお客様にしか言ってないんだけど、私、結婚しているの。中学生の息子が一人。去年全寮制の中学校に入ったの。旦那は…」

愛子さんは夜空を見上げ、短いため息をついた。

「旦那はね、今年に入ってから家を出て行ってしまったの。今はきっと、女の家ね」

そんな話をする、彼女の憂いを帯びた横顔は、ただ美しかった。

医者という仕事以外に大した経験のない僕は、こんなとき、気の利いた言葉の一つも出てこない。

さっきかかってきた嫌な電話とは、彼女の夫の顧問弁護士からだという。夫は離婚を主張し、お互いに弁護士を立てて話し合おう、という内容だった。

15歳年上の夫は不動産業を営み、お金には困っていない。だから、彼は愛子さんに出会った当初から遊び方も派手だった。

「旦那はもともと上顧客で、私は水揚げしてもらったの。でも、私に専業主婦は向いてなくて、すぐに銀座に戻っちゃったけどね」

そう力なく笑う愛子さんの目は、わずかに潤んでいるように見えた。

「カゲヤマは、彼女いるの?」

愛子さんは、急に僕の腕をとって、耳元に顔を寄せ、まるで大事な話をするように囁いた。その時、ふと花のような彼女の髪の香りが鼻をかすめ、僕はドキッとした。

「…いませんよ」

もう恋はしないんです。それを彼女に言うまいと、グッと言葉を飲み込んだ。

「私の家、骨董通りの方なの。よかったら送ってくれる?」

彼女の甘い声に、僕は不器用に答えた。

「もちろん。タクシー捕まえてきますね」

僕がそう言って通りに向かって手を上げると、彼女はそれを制し、「歩きたいの」とつぶやいた。

「鮨で一杯飲んだあとは、みんなで愛子さんの店に行って飲むぞ」と意気込んでいた明石の顔を思い出したが、飲み会の席に戻る気は、すっかり失せてしまっていた。

彼女が小脇に抱えるマトラッセの中で、おそらく顧客からであろう着信が、鳴っては切れを繰り返している。

「いいの?出なくて」

僕の問いかけに、彼女は短く答えた。

「いいのよ、今日は特別」

ふらつきながら彼女は僕の腕にしがみつき、2人でゆっくりと歩き始める。彼女の体温をじんわりと感じた僕は、少し緊張した。

同時に子どもの頃のある記憶が蘇ってくる。

たしか6歳の頃。

あの時、虫籠の中で僕が捕まえたアゲハは息絶えていた。「可哀想だからもう捕まえてこないで」という母親に叱られた記憶だ。

だが、六甲の別荘で過ごした夏、ミヤマカラスアゲハが目の前を優雅に飛んでいるのを見た時、僕はどうしてもそれを手に入れたくなったのだ。

また籠の中で死なせてしまうのに。

何かを自分のものにしたいという欲望は、きっと理性とは紐づいていないと、僕はそのとき感じた。

今まで頑なに、女性との付き合いを拒んできたのに。

悲しい結末など想像もできないほど、このとき僕はまた美しい蝶が欲しくなったのだ。


▶前回:「合鍵、もらってもいい?」医師が25歳の彼女と結婚を考えた矢先、実家に猛反対されたワケ

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愛子が気になり、銀座へ足を運ぶ医師・影山。彼女が見せた別の顔に、彼は…

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