「嫌なこと、全部忘れられる…」密偵の罪悪感に苛まれた女の、危険な現実逃避

東京の平凡な女は、夢見ている。

誰かが、自分の隠された才能を見抜き、抜擢してくれる。

誰かが、自分の価値に気がついて、贅沢をさせてくれる。

でも考えてみよう。

どうして男は、あえて「彼女」を選んだのだろう?

やがて男の闇に、女の人生はじわじわと侵食されていく。

欲にまみれた男の闇に、ご用心。

◆これまでのあらすじ

友人・ひかりから、黒川の裏の顔を告げられた秋帆。「やはり」という気持ちと、信じられない気持ちが交錯する。だが、黒川の要求はエスカレートし…。

▶前回:上司の歪んだ寵愛に溺れた女。不意に知らされた、衝撃の「男の裏の顔」


「今回のリスト。よろしく」

出勤した黒川は、秋帆のデスクの横を通りながら書類を置いた。

― またか…。

周囲に見られぬよう、秋帆は急いで書類を引き出しにしまう。

相変わらず、会社、いや黒川にとっての不穏分子を内密に調査する業務は続いていた。

最近は、わざとランチに誘って聞き出したり、会議の直後に隣室に忍び込んで、盗み聞きすることもある。

当然、罪悪感はあった。

自分が報告すれば、社員を辞職に追いやってしまうのだ。仕事とは言っても、やって良いことと悪いことがある。

業務に嫌気がさした秋帆は、本当にネガティブな意見のみ報告し、愚痴については見過ごすことにしていた。

しかしそれが続いたある日、呼び出された。

「本当に真面目にやってるのか?最近、手抜きしてるだろう」

黒川は、苛立った様子で秋帆を問い詰めた。

「そんなことは…。いえ、失礼しました」

とっさに反論したものの、黒川の突き刺さるような視線を感じ、すぐに頭を下げた。

― こんなこと、やりたくない…。

そう思っても、自分が“標的”になるのは怖かった。黒川に逆らえば、仕事も生活も失う。

秋帆は良心を必死に押さえつけながら、報告作業を繰り返した。

秋帆は罪悪感から逃れるために、あることに夢中になる。それは…?

魔法


「納期に間に合わなかったなんて、一体どういうことなんだ?」

ある朝。

黒川の怒号が響き渡った。この日、呼び出されているのはWebデザイナー。

先日告発した内容を思い出し、秋帆の胸は、痛いほどに締め付けられた。

“黒川が設定する納期や数値目標は、無理がある。その結果、部署全体が疲弊し、悪い影響を与えている。限界だ”というものだった。

制作のマンパワーは、かなり不足している。需要に供給が追いついていないのだ。

納期をいつもより長めに調整するとか、そもそも一旦受注を停止するといった手立てが考えられるが、黒川がそれを許さない。

「高い給料を払ってるのだから、徹夜でも何でもして仕上げるのが当然だ」というのが、彼の言い分だ。

「先方にお伝えしていた納期をこちらの都合で変更した件につきましては申し訳ありません。ですが、今回は …」

Webデザイナーが事情を説明しようとすると、黒川がその言葉を遮った。

「なんだって言うんだ?」

「ですからその…」

デザイナーがさらに反論しようとした瞬間、秋帆は耳を塞いだ。予想通り、黒川の怒鳴り声が手のひらを通り越して、耳の奥の鼓膜を叩いた。

「ですからじゃない」、「言い訳はいい」、そんな罵声が飛び交う。

ただただ雷が鳴り止むのを待つ子供のように、秋帆はブルブルと身を縮めていた。

「早く終わってほしい…」

苦しい時間ほど、なかなか過ぎてはくれない。黒川が怒り狂った日は、わざとなのではないかと思うくらいに時間がノロノロと進むのだ。

― そんな日は、アレに限る。

秋帆は、必死に耐えながら終業時間が来るのを待った。


「これ、お願いします。あと、これも」

終業後。

デパートに向かった秋帆は、スカートを色違いで購入した。つい3日ほど前、似たようなスカートを買ったばかりだが、そんなことはどうでも良い。

別にスカートが欲しいわけではないのだ。今必要なのは、ストレスを発散することと、罪悪感から解放されること。

会計を済ませた秋帆は、地下一階にある食品売り場へと向かう。

限定入荷というワインに、トリュフの香りが広がるチーズなどをカゴにどんどん入れていく。

― どうせタクシーで帰るんだし、欲しいもの全部買っちゃおう。

秋帆は、つかの間の幸せを噛み締める。

買い物は魔法だ。その時間は、嫌なことも全部忘れられるし、なにより心が満たされるのだ。

黒川の怒鳴り声を聞いている時とは比べものにならないほど、時間もすぐに過ぎ去ってくれる。

社員が、自分の“告げ口”のせいで辞職に追いやられるのは胸が痛む。秋帆は、胸の痛みを癒すかのように買い物を続けた。



「荷物の片づけ、よろしく」

社長室から出てきた人事部長は、デスクの脇を通りながら、軽い調子で依頼してきた。

誰のことか聞かされていないのに、秋帆はすぐに察する。

― やっぱり…。

黒川と面談後、デザイナーは出社しなくなった。聞けば、昨日、郵送で「退職願」が送られてきたらしい。

「かしこまりました」

秋帆はすぐに作業に取り掛かった。彼のデスクを片付け、荷物を段ボールに詰め込む。

この作業も、何回目だろう。その証に、やけに手際が良くなっている自分がいた。

初めて依頼された時は、1時間くらいかかっていた梱包作業が、今では30分もかからない。

最後の段ボールにガムテープを貼り付けていると、突如、自分が陥れた社員の顔が思い浮かんだ。

自分のせいで、また一人、またひとりと辞めていく。

この事実に、秋帆の動悸は速まり、息をするのが苦しくなる。

ゼェゼェと、いやに大きな音のする呼吸の後、今度は咳が止まらなくなった。

秋帆は、急いで給湯室へと駆け込む。最近は、風邪をひいているわけでもないのに、咳が出ることが増えたのだ。

「まただ…」

黒川への報告業務が始まってから、秋帆の身体に変調が起き始めていることは確かだった。

ランチに呼び出された秋帆。そこで問いただされたのは…?

良心と欲望のあいだ


「ねえ。あれって、黒川社長の指示なの?」

ある日。

秋帆は、フリーの女性デザイナーに誘われてランチに出かけた。注文を終えた彼女は、世間話もなく、単刀直入に聞いてきた。

「えっ?」

一瞬、彼女が何を言っているのか理解できなかった。思わず聞き返したものの、彼女から向けられる厳しい視線で、すぐにピンときた。

― 黒川社長への報告業務のことだ…。

表に出さないように努力してきたつもりだが、見破られていたらしい。

心臓が、ドクンと大きな音を立てる。秋帆は、水を飲んで落ち着こうと、慌ててグラスを手繰り寄せる。

だがその瞬間。うっかり手を滑らせてしまい、グラスの水をこぼしてしまった。

「ご、ごめんなさい…」

秋帆がここまで動揺したものだから、肯定したわけでもないのに、女性デザイナーには、“クロ”と判定されてしまったようだ。

彼女は、秋帆が黒川への報告業務をしているという前提で話を進めた。

「もちろん、白田さんが好きでやってるとは思ってないけど。

率直に言うね。皆、あなたのことを疑ってるわ」

「そ、そうなんですか…」

さきほどの言葉以上の動揺が、秋帆に広がる。せっかく運ばれてきたパスタを前に、食欲がなくなってしまった。

だが彼女は、「やっぱりここのパスタは、美味しい」などとのんきなことを言いながら続ける。

「黒川社長の指示だとしても、その仕事って…」

言いたいことは分かるよね?というような表情で、途中で話すのを止めた。

「…」

突き刺さるような視線を向けられ、秋帆は何も言い返すことができなかった。業務とはいえ、自分のしていることが正しいとは思っていない。突如、罪悪感に襲われる。

とてもじゃないが、食事をする気分ではなく、結局秋帆は、一口も食べないままランチタイムを終えた。

「私から周囲に言ったりはしないから安心して。それより、もう一回立ち止まって考えたほうが良い。私はいくらでも逃げようがあるけど、白田さんは立場的にも難しいでしょう」

その日を境に、彼女とは顔を合わせることはなくなった。

黒川によれば、家庭の事情を理由に、契約更新をしないとの申し出があったのだという。

「ちょうどプロジェクトが終わったタイミングだったから良いけど、後任探しが面倒」などと、黒川はブツブツ言っていたが、彼女はきっと逃げたのだろう。

秋帆は、また一人、今度は話せる人がいなくなってしまったと、自分でも驚くほどに落胆した。


「お疲れさま。これ、おやつにでも食べて。よく頑張ってくれているからね」

外出先から戻った黒川は、なかなか手に入らないことで有名なカツサンドを手渡してきた。

「あ、ありがとうございます…」

黒川のもとを去っていく従業員が増えるたび、秋帆の周りには黒川からの贈り物が増えていく。

今日のように食料品もあれば、化粧品や高級ブランドのスカーフのこともあった。最近、高級ワインももらって、ネットで調べてその価格に驚いたばかりだ。

給料も、理由はよく分からないが増えた。勤務手当として10万円多く振り込まれたり、特別賞与という形で、数十万もらえることもあったのだ。

それは、口止め料のようにも思えたし、共犯者への報酬のようだった。

― “よく頑張ってくれているからね”

秋帆の脳内に、黒川の言葉がリフレインする。自分のやっていること、頑張っていることは正しいのだろうか。

「そんなこと、考えないの」

秋帆は、自分に言い聞かせるように首を振る。そしてその夜も、罪悪感を忘れ去るように買い物に繰り出した。

潤沢な給料のおかげで、広々としたクローゼットには、大量の洋服やバッグがしまってある。これまでプチプラばかりだったジュエリーも、一流品を身に着けられるようになった。

「確かに、仕事はつらい。だけど…」

東京一等地での生活。潤沢な給料。高級レストラン。これは、すぐに手放せるものではなかった。

秋帆は、“別に犯罪をしているわけじゃないし”と、自分に言い聞かせた。


▶前回:上司の歪んだ寵愛に溺れた女。不意に知らされた、衝撃の「男の裏の顔」

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社内でも孤立していく秋帆。そんな時、一本の電話がかかってくる…。

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