東海林のり子の人生を揺るがした、阪神淡路大震災「しんちゃん」との出会い

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―[職業・芸能リポーター]―

 昭和・平成を駆け抜けた「ワイドショー」はいまひとつの転換点を迎えている。ときに事件、事故、スキャンダルの現場に向かい、人々の喜怒哀楽を伝え、時代の節目に立ち会ってきたリポーターたちも、同時に新たなステージへと向かおうとしている。果たして芸能リポーターという仕事とは何だったのか? 令和のいま、当事者たちの証言をもとに紐解いていく――。

<東海林のり子・第4回>

◆瓦礫のなかに埋まっていた少年

 そこでは、まさに「言葉を絶するような」光景が繰り広げられていた。七階建てのマンションが跡形もなく倒壊した瓦礫の山からは、ところどころ白い蒸気が噴き出している。その周りを不安そうな面持ちのまま見つめる人たち。その傍らでは、棺を運ぶ人々がせわしなく行き交っている……。そんな光景を目の当たりにしながら、東海林のり子は言葉を失っていた。

「それまでにさまざまな事件現場、自然災害現場でリポートをしてきました。でも、あのときほど、想像を絶する光景は見たことがありません。ところどころにまだ火の手が上がっていました。ほとんどの建物が倒壊し、取り残されたように建っているビルは、いつ崩れてもおかしくない状態。一体、どこから取材を始めればいいのか? 誰に話を聞けばいいのか? すべてが手探りの中、その場に立ちすくんでしまいました……」

 1995(平成7)年1月17日午前5時46分52秒――。兵庫県淡路島北部の明石海峡を震源とするマグニチュード7.3の大地震が発生した。この地震による犠牲者は6434名に達し、近畿圏広域が甚大な被害を受けた。後に「阪神淡路大震災」と称されることになる未曽有の大災害だった。当時、60歳となっていた東海林も当然震災当日に関西入りしていた。

「取材当初はマイクを向けても、応えてくれる人は誰もいませんでした。家を失い、大切な人を失った人たちの悲しみの中での取材の難しさを感じながら、スタッフたちとともに昼夜を問わずに走り回っていました」

 震災から数日が経過した。さまざまな現場を駆け回ってきた東海林にとって、今でも忘れられない「出会い」がもたらされた。

「その日の朝、倒壊してしまっている甲子園口駅前のマンションで、自衛隊による捜索活動が行われるという情報を得ました。現場に着くと、マンションの瓦礫の周りで心配そうに見守っている家族がいました。マイクを向けて、『どなたか、ご家族の方が……』と尋ねると、『9歳の息子が……』と口にされました」

 9歳の息子――、彼の名は「しんちゃん」と言った。

 捜索作業は何時間も続いた。その間、現場近くのビデオ店の店主に話を聞き、作業に臨む自衛官にも話を聞いた。指揮を執る隊長に「生存者がいる可能性は?」と尋ねると、「必ず生きていると思います」と力強い言葉が返ってきた。

「この隊長の言葉はよく覚えています。“厳しいです”とか、“危ないです”って言わなかったの。“いい隊長だな”って思ったのよね。そうしたら、本当に助けられた人がいたんです」

 これが、東海林と「しんちゃん」との出会いの瞬間だった。

◆「東海林さんが一緒に見守ってくれたから、助かった」

「救急車、救急車を呼べ!」という叫び声を受けて、現場がにわかに慌ただしくなる。大急ぎで駆けつける救急隊員が、東海林の横を駆け抜ける。「助かりそうですか?」と、大声で尋ねると、救急隊員は「うん」と答えた。

 規制線越しに状況を見守る。瓦礫の山から担架で運ばれる人間の姿が確認できた。「助かったのか?」と思った瞬間、担架には毛布が掛けられた。一転して、「ご遺体なのか?」と落胆した瞬間、毛布が地面に落ちた。少年の姿が確認できた。

「その瞬間、先ほど話を聞いたお父さんが少年の下に駆け寄りました。本当はいけないことだけど、私もカメラマンも一緒に担架に向かいました。『お父さん、しんちゃんですか?』と尋ねると、『はい』とお父さんが答えました。しんちゃんは大急ぎで救急車に運ばれ、市内の病院へと向かったんです」

 一連の光景をカメラはすべて納めていた。瓦礫の山から少年が救出される瞬間は全国に放送され、視聴者の反響も大きかった。現場では、その後も東海林たちの奮闘は続いた。救急車が病院へと向かっていく。見失わないように、東海林たちも後を追う。

◆長いリポーター人生で初めて訪れた至福の瞬間

 そして、入院先の病院で少年の父親を見つけることができた。東海林は少年の安否を尋ねる。父は安堵の表情を浮かべながら、「ICU(集中治療室)に入っています」と口にした。そして、しんちゃんは一命をとりとめた。

「ICUに入って、懸命の手当てを受けて、しんちゃんは助かりました。このときお父さんに、『東海林さんが一緒に見守ってくれたから、しんちゃんは助かったんですよ』って言われました。この言葉は、長いワイドショー取材の中で、いちばんのご褒美でした。普段は、『邪魔だ』って邪険に扱われているのに、このときは私たちのことを単なる取材者という目で見ていなかったわけだから。本当に嬉しかったな」

 20年間に及ぶ、長いリポーター人生において、初めて訪れた至福の瞬間だった。辛く、厳しく、痛ましい出来事ばかりが繰り広げられていた事件、事故現場において、心から安堵し、喜べた瞬間だった。しかし、この阪神淡路大震災をきっかけに、東海林はリポーター生活の幕を自ら降ろすことを決意するのだ。

◆テレビの限界を悟った瞬間

 震災当日に現場入りして、無我夢中でリポートを続けて1週間が経過した。いったん、東京に戻ったものの、大惨事の爪痕はいまだ癒える気配がない。甚大な被害を受けた被災地の惨状はさらに明らかになり、被災者の心の傷はより深くなり、地震で亡くなった人々の命は戻ってこない……。東海林は自問する。

(あれだけの惨状を、そして今も続く現状を、私たちはどれだけ伝えることができるのだろうか……)

 このときの心境を東海林が振り返る。

「果てしない瓦礫の山を目の当たりにし、おびただしい数の棺が運ばれていく様子をこの目で見ました。そうした光景を、一生懸命リポートしました。でも、どんな言葉を添えようとも、どれだけの言葉を費やそうとも、この惨事のすべてを伝えることはできないんだ……。そう、気づかされたんです」

 1985(昭和60)年8月12日の日航機ジャンボ機墜落事故の現場にも行った。その3年前となる'82年2月8日未明に起きたホテルニュージャパン火災の現場にも駆けつけた。少年犯罪が注目されるきっかけとなった金属バット両親殺害事件や東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件など、さまざまな事件のリポートをした。

 決して、順風満帆だったわけではない。何度も困難な壁にぶち当たった。それでも、日々やりがいを感じていたのに、このとき初めてテレビの限界を感じたのだ。

「どんな事件にも、どんな事故にも、自分なりに真摯に向き合ってきた自負はあります。でも、阪神淡路大震災の現場を経験して、もうこれ以上、悲惨なことに出会うことはないだろうという思いが芽生えました。私たちが伝えられることは何なのか? テレビは何をできるのか? そして決断したんです……」

 40歳のときにリポーターとなってから、すでに20年が経過していた。60歳を機に、東海林は決断をする。事件リポーターからの引退を――。

(第5回に続く)

取材・文/長谷川晶一(ノンフィクションライター)撮影/渡辺秀之

―[職業・芸能リポーター]―


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