はたち?にじゅっさい?『二十歳の原点』誰も知らない本当の読み方

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―[連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史>]―

◆はたち?にじゅっさい?『二十歳の原点』誰も知らない本当の読み方

 3回目のPCR検査を受けながら、粛々と5月15日から始まる芝居『アカシアの雨が降る時』の稽古を続けています。

 70歳の女性が認知症になった結果、自分のことを20歳と思い込む所から始まる物語です。彼女は、1970年代初頭に生きてると思い込むのですが、その頃のアイテムのひとつ『二十歳の原点』が登場します。

 知ってます?

 鉄道自殺を遂げた立命館大学生、高野悦子さんの1969年1月から6月までの日記です。出版は1971年。現在まで版を重ねて230万部の大ベストセラーになっています。

 今回、『アカシアの雨が降る時』のために再読したのですが、単語は古くなっていても、彼女の苦悩や葛藤、思考は決して古くなってないと感じました。

◆著者がどちらと捉えていたかは誰にも分からない

 でね、話は少しそれるのですが、『二十歳の原点』を「はたちの原点」と読むか「にじゅっさいの原点」と読むか、の問題です。

 ウィキペディアでは、「正しくは『にじゅっさい』のげんてん」である」と書かれていて、腰が抜けそうになりました。

 ただし、「国立国会図書館の蔵書検索においては『はたち』のげんてんと登録されている」とも書かれています。

 当然です。あの時代、圧倒的多数は、「はたちの原点」と読んでいました。

 1971年に出版された単行本の「二十歳の原点」では、読み仮名が振られていませんでした。

 ですから、多くの一般的読者は自然に「はたち」と読んだのです。が、今回、文庫本を買うと、タイトルに読み仮名が振られていて「にじゅっさい」となっていました。

 そもそも、「二十歳の原点」は、高野悦子さんの日記の中の有名な文章、「『独りであること』『未熟であること』、これが私の二十歳の原点である」から取られています。

 ですから、高野さんがこの文章を「はたち」と読んだのか「にじゅっさい」と読んだのかが問題なのですが、それは今となっては、残念ながら誰にも分からないわけです。

◆読み方はあいまい、書き文字は重要

 高野悦子著『二十歳の原点』を詳しく研究し、調査を続けているN.Kitamotoさんのホームページ「高野悦子 『二十歳の原点』案内」によれば、そもそもの日記は「これが私の20才の原点である」という表記で横書きだったそうです。

「20才」と洋数字で横書きだと、「にじゅっさい」と読む可能性が高いですが、でも、断定はできません。

 ホームページでは、『二十歳の原点』の新潮社の担当編集者にインタビューもしていて、担当編集者は「にじゅっさい」と読んでいたが、「はたち」という「俗称」が「堂々と通ってるんだよね。それで途中から“どっちでもいいや”って思ってるんだ。あんまりこだわらない」と発言されています。

 この態度なら、よく分かります。どっちでもいいのです。でも、「にじゅっさい」とルビを振って、圧倒的多数が読んでいた「はたち」を過去にさかのぼって否定することは、とても問題なのではないかと僕は思っています。

◆「日本」をどう読むか?

 お前は、そんな小さなことをなんで問題にするのか? と思われるかもしれませんが、一番大きな問題は、「日本」をどう読むかです。

 これを「にほん」と読むか「にっぽん」と読むか。

 時々、「にっぽん」が正しいんだなんて断定しようとする人がいますが、歴史的に言えば、戦前、当時の文部省が「にっぽん」に決めようとしたという記録が残っています。

 が、関係各所から激しい抗議が来て、途中でやめたのです。

 アジア・太平洋戦争に突入する時期ですから、「大日本帝国万歳!」と叫ぶ時は、「にっぽん」と破裂音を含んだ方が勇ましいわけです。

 でも、大人しく(?)「にほん」と呼びたい時もあります。そのあいまいさは「日本」という文字があることで問題にならないのです。というか、問題にする必要がないのです。

 戦争中に、アメリカ軍が「どうしていつも日本軍は膨大な記録を残しておくのだ。口頭ですむような指令もすべて文書にしている。目的はなんだ?」と警戒したのも「読み方はあいまい。でも、書き文字は重要」という日本文化の特徴そのものなのです。この話、続くかもです。

―[連載「ドン・キホーテのピアス」<文/鴻上尚史>]―


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