『青天を衝け』渋沢栄一の両親が大誤算した「千代との結婚」──自由放任主義で“色男”を支える妻の美学

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──歴史エッセイスト・堀江宏樹が国民的番組・NHK「大河ドラマ」(など)に登場した人や事件をテーマに、ドラマと史実の交差点を探るべく自由勝手に考察していく! 前回はコチラ

 先週の放送で、栄一(吉沢亮さん)が妻・千代(橋本愛さん)を「バックハグ」したシーンが「胸キュン」だとネットニュースになっていましたね。実際に二人の夫婦仲はどうだったのでしょうか?

 江戸時代後期ともなれば話し言葉の基本部分は、現代日本とほとんど変わらなかったといわれています。愛情表現も基本的には現代と同じです。人目につかないところで、という条件付きですが。

「バックハグ」なんて言葉はもちろんなく、当時では背後からの抱擁とかそういう感じでしょうか。ちなみにキスという意味の「チュウ」の単語はすでにありました。歌川国芳(1798-1861)の歴史モノの連作春画のタイトルに『口吸心久茎』というものがあり、これを「ちゅうしんぐら」と無理矢理に読ませているのです。

 ですから、おやすみ前の抱擁からのチュウくらいのことは、渋沢家の寝室でも行われていたとは思われます。が、なかった可能性も多いにあるのですね。

「えっ、あの性豪・渋沢が!?」と思う読者もいるでしょう。ただ、この頃の渋沢栄一は「まだ」淡白だったかもしれないのです。

 前回の放送でも2人の間に「子どもがなかなかできない」ことが夫婦の悩みとして取り上げられていましたよね。しかし、その原因は千代というより、栄一にあったのかもしれないわけです。

 渋沢栄一は莫大なエネルギーの持ち主ですが、その迸らせ方に特徴があります。とにかく気になることにだけ、全身全霊でぶつかるのですね。ドラマでも描かれているように、当時の彼は尊皇攘夷に夢中。恋仲を実らせて結婚した美人妻よりも、政治にのめり込んでしまっていたから、夜は疲れて寝るだけの日が多かった……のかもしれません。

 これは栄一の両親にとっては、大いなる誤算と落胆でした。

 渋沢栄一は18歳で、17歳の千代と結婚しています。当時の農民の結婚年齢よりかなり早い結婚でした。しかし、それには理由がありました。栄一の政治熱です。農民でありながら政治に熱心すぎる栄一を、彼の父母は心配し、結婚して妻を持てば家の仕事に精を出すようになるのでは……という配慮があったというのです(渋沢秀雄『父 渋沢栄一』)。

 ちなみに千代がスラリとした美人だったのも事実です。

 栄一の母「えい」は、「千代の姿のしなやかなのは、深窓で奥様とかしづかれるにはよかろうが、私等位の身分の家には形はどんなに品がわるくとも骨太」のほうがいいと最初は感じていた、と言っていたそうです。ドラマにもこれは少し形を変えて出てきましたよね。ところが、栄一は美しく、知的な女性・千代を妻にした後も、政治への情熱を失いませんでしたし、さらに危ない橋もどんどん渡るようになります。

 栄一は20代後半くらいまでは本当に政治一辺倒で、かなりのカタブツでした。栄一の政治熱は尊皇攘夷活動の大失敗によって一度は頓挫しますが、その後も一橋家にスカウトされ、仕えるようになったので延々と持続していきます。

 20代中盤の栄一は、一橋家の命で、幕末の京都で約3年過ごしました。当時の心情を彼はこう語っています。

「毎夜のように祇園町とか木屋町とかいう場所で酒盃の席に陪するのが職分のようになって来ては、自然と浮薄の風に流れされやすい虞(おそ)れもある(渋沢栄一の自伝『雨夜譚』)」。

 毎晩のように京都の花街・祇園町などの宴席に一橋家の家臣として連れて行かれることがお仕事のようになっていては、私自身もそれに毒され、軽薄な方向に行く恐れがあった、とのこと。

 まだ25~6歳なのにあまりにカタブツな生活を送る彼を気の毒に思った黒川嘉兵衛という上司が要らぬ気を利かせ、栄一の泊まる部屋の布団の横に女性を座らせてみたこともあったそうです。が、栄一は喜ぶどころか激怒。部屋を飛び出してしまったのだとか。後の性豪っぷりを知る我々には信じがたい真面目さですよね。

 しかし、そんな栄一が変わり始めたのも、やはり京都でした。仔細不明ですが、新選組のある隊士の恋人と思しき女性と栄一の関係が疑われ、従兄弟の渋沢喜作と同居している家に7~8人の隊士たちがなだれ込んできたこともあったそうですよ。栄一の息子の秀雄が語っています。

 渋沢の女性関係がハデになりだすのは、彼が明治政府の役人になってからで、逆にいうと政治活動への情熱の代わりになったといえるかもしれません。そもそも渋沢の女遊びの師匠の1人は、明治政府に渋沢が仕えるようになった時に親しくしてもらった、伊藤博文だそうです。色の道では大変な達人といえるでしょう。

 そうした渋沢の変化を普通の妻ならイヤがるでしょうが、千代は黙認するだけでなく、肯定していた気配もあります。「怪しい政治熱に浮かされて危険なことをされるよりはよほどマシ」という一種の妥協に加え、夫の女遊びについて、千代は独特な捉え方をしていたようなのです。

 後になってからのことですが、千代と栄一の家に、親戚の若い男性が下宿するようになりました。千代と栄一の娘・歌子が母について書き残した『ははその落ち葉(※ははそ=柞、広葉樹の総称)』によると、その男性の言葉遣いや所作が乱暴でダメだと、千代が注意したことがあったそうです。

「男だからと云って、お前のように少しも愛嬌が無く、万事にごつごつしているのがよいことはない。私はお前に、真の色男になってもらいたく思う」と千代は言いました。

 千代によると「真の色男」とは、“女性から命がけで慕われ、その愛情に応えることができるような男性”だそうですが、恐らく、彼女の中で栄一はそういう男性であり、そう振る舞ってほしかったのでしょう。

 同時に、夫が一流の男になるには「色気」が必要で、それは女性との交流によって得られるものだろうと、と千代は感じていたようです。それが自分以外の女性との交流によるものであっても、私は構わないという態度を千代は見せ続けました。渋沢千代が「烈女」と呼ばれる理由の一つが、この手の夫の自由放任主義だったといえるかもしれません。

 栄一も栄一で、一流の男は「歌くらい歌えなくてはダメ」というようなことを『論語』にかこつけて言っています。「歌える」とは、「風流なこと全般に通じている」という意味であり、そこには「恋愛」も含まれていると見るのが当然です。

 そこまで夫を放任できてしまうのも、深い愛ゆえなのでしょうが、千代は自分にできることは家庭と子どもたちを、妻として守っていくことであり、夫に必要な色気を与える仕事は別の女性に外注することにした、ということでしょう。

 まぁ、現代ではなかなか受け入れられない価値観でしょうが、それもこれも、自分自身が誰にも負けないくらいに美しいという千代の自負があってこそかもしれませんね。

「渋沢栄一、遅い性の目覚め」については今後触れる機会もあるでしょうが、今日のまとめとしては、性豪として知られる栄一だけれど、それは「遅咲きの狂い咲き」の結果だったということです。

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  • 4/25 12:00
  • サイゾー

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