【連載対談】【対談連載】芝浦工業大学 システム理工学部 環境システム学科 教授 増田幸宏

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【埼玉・大宮発】増田さんの略歴を拝見すると、今日まで真っすぐに学者への道を進んでこられたように思える。ところが、ご本人は「流されるままに生きてきた」とおっしゃる。怪訝な気持ちでお話をうかがっていると、それは怠惰だとか成り行きまかせといったネガティブな意味ではないことがわかる。人生の節目節目で、自分でも予期しない次に進む場を決定づける出来事や人との出会いがあったのだ。縁というか偶然というかはわからないが、その真摯な姿勢がそれを呼び寄せたことは間違いないだろう。
(本紙主幹・奥田喜久男)

●将来の進路を決定づけた
阪神・淡路大震災の衝撃


 増田さんと初めてお会いしたのは、まだ早稲田の学生さんだった頃ですね。
 はい。その節はたいへんお世話になりました。当時、仲間たちとやっていた勉強会の講師として足を運んでいただき、政治・経済・宗教など、いろいろな分野のお話をしてくださいました。
 もう20年ほど前になりますか。懐かしいですね。毎年、年賀状で近況をお知らせいただいていましたが、そのご活躍の様子を聞いて、一度じっくりとお話を聞きたいと思ったんです。
 現在取り組んでおられるテーマについてはのちほどお話しいただくとして、まずは建築を専攻し、学究の道に進まれた理由を教えていただけますか。
 高校時代は「人間を知りたい」という思いが強く、そのために大学では基礎医学の分野に進んで脳の研究をするか、あるいは文学や哲学を学んでその深淵に迫るかといったことを考え、思い悩んでいました。いかにも高校生らしい悩みですが、1995年1月17日に阪神・淡路大震災が起こり、大きな衝撃を受けました。この震災が、私の進路を決定づけたのです。
 あのときの神戸の街は、想像を絶するたいへんな惨状でしたね。
 極めて堅固だと思われていた高速道路が倒れるような被害状況を目の当たりにして、「日本は安全な国ではなかったのか」という疑問が湧きました。また、同じ地域でも倒壊してしまった家と倒れなかった家があり、わずかなタイミングの差で人々の生死を分けたという事実もショッキングでした。そうしたことを理解するには何が必要なのか考え、目の前で起きたことをなんとかしなければならないと思いました。そこに大学に行く意味を見いだし、建築や都市について学ぶことにしたわけです。
 増田さんにとってこの震災は、将来を指し示す天の啓示のようなものだったのかもしれませんね。
 そうですね。まさに目を覚まされるような出来事でした。このとき、当たり前の生活がこれほど脆いものだと実感したことが、いまにつながっていると思います。
 そして、阪神・淡路大震災のおよそ2か月後に地下鉄サリン事件が発生したわけですが、これもその後、私が危機管理の研究をする大きなきっかけとなりました。日本は、自然災害は多いもののテロは少ないと思われがちですが、このような世界を震撼させた事件がこの国で起きたことを忘れてはならないと思います。

●大学でしかできないことがあると
気づき学究の道を選択する


 建築学科に入られてからは、どんな学生生活を送られたのですか。
 私の場合は大学に進学する直前に進路が見えてきたわけですが、実際に大学に入ってみると同級生の多くが小中学生の頃から建築を志していて、その世界のことをみんなよく知っていました。そのため、そうした会話についていけず、場違いな感覚にとらわれてしまいました。そこで、すべての授業を隅から隅まで聞けば自分にもわかるかもしれないと思って、それを実行したのです。
 それはとても真面目というか、増田さんらしい発想ですね。
 真面目というよりは、このままではまずいという気持ちのほうが強かったですね。それから、建築学科は1学年に200人の学生がいたのですが、当時は先生から直接指導してもらえるのは、成績のよい一握りの学生だけでした。大学というのはこういうところなのかと衝撃を受けましたね。
 自由だけど競争も激しいと……。
 就職先についても、建築業界に進むか、パブリックな視点から都市計画などの仕事ができる公務員を目指すかなど悩んでいたのですが、学部で3年間勉強した後、アメリカのオレゴン大学に1年間留学し、帰国後は都市環境工学の尾島俊雄教授の研究室に入りました。
 その研究室を選んだ理由は?
 当時の建築学科には20人ほどの先生がいたのですが、1年生のとき、先生方がそれぞれ1回ずつオムニバス形式で講義を行いました。そのなかで尾島先生は「世の中には課題がたくさんある。君たちはそれに対してどう考え、どう答えるのか」と、相手が新入生であるにもかかわらず、とても厳しい言葉で各人に問いかけたのです。それがとても印象に残っており、この研究室で学ぼうと考えました。
 当初は、大学院に進まず就職するつもりでした。大学院に対して「たこつぼ」的なイメージをもっていたからです。ところが、研究室で実践的なプロジェクトに携わることで大学でしかできないことがあることに気づき、修士課程に進むことにしました。
 なるほど、そのあたりから学者への道にシフトしていったわけですね。
 そうですね。尾島研究室では外部からもいろいろな先生を招いて研究を進めていたのですが、当時、小泉政権下で「都市再生」のプロジェクトチームの座長をされていた特任教授の伊藤滋先生から、「君、担当してみないか」と声をかけられました。
 まさに実践的なプロジェクトですね。
 ただ、寝る間がないほど忙しく、大学に泊まり込む日々が続きました。人生の中でトップスピードで走れる時期はそれほど多くないと思いますが、このときは無我夢中で突っ走った感があります。
 人生にそういう時期があることは、とても貴重ですね。
 あるとき、先生からある資料をつくっておいてくれといわれ、それを提出したところ先生はその場で一枚一枚内容を確認するのですが、あるところで手が止まり「おっ、これいいね、小泉さんに説明しておくよ」とおっしゃったんです。
 それはうれしいですね。
 はい。自分がやったことがそうした重要な場につながっていくという喜びと、もっと頑張らなければという思いを抱きました。
 夢中で目の前の課題に取り組んでいると、次にすべきことが見えてきますし、判断が明確になってきます。この仕事は他の人ではなく自分がやるべきであり、また自分自身やりたいことと確信し、さらに3年間の博士課程に進むことにしたのです。ただ、私の場合は最初から学問の道を歩むと考えていたわけでなく、当初考えていた道ではないほうに扉が開かれたのだと思います。(つづく)

●使い慣れたペンとノート


 学生時代から、とにかくたくさんノートを取り、速記のように書き取ることを心掛けたという増田さん。最近は主にパソコンを使っているが、基本的なスタイルは変わらず、そのときの感覚や感動が再現できるよう詳細な記録を残しているそうだ。学生さんに対しては、ノートを取るに値する情報や有意義な内容を伝えられているかどうか自問自答することが多いとのこと。謙虚で真面目な性格が、こうしたところにも現れている。
心に響く人生の匠たち
 「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
 「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。
  • 4/23 8:00
  • BCN+R

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