「平泉に黄金文化」栄華百年の奥州藤原氏「知られざる最大危機」

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 中尊寺金色堂がある平泉(岩手県)にかつて黄金文化を築き、一世紀にもわたって東北地方一帯に勢力を張った奥州藤原氏。

 その勢力圏は白河(福島県)から津軽半島の外ヶ浜(青森県)にまで及んだ反面、始祖である藤原清きよ衡ひらには幼少期、実は“処刑”される可能性があった。

 彼は四代である泰衡まで続いた奥州藤原氏の礎をはたして、どのようにして築き上げたのだろうか――。

 清衡の父である亘理権守藤原経清は、平将門を討った藤原秀郷の末裔とされ、陸奥国の在庁官人(現地の地方役人)だった。彼は「権守」というポストを利用し、陸奥国亘理郡(現在の宮城県南部)に私領を開いたあと、領地の経営を安定させるために「俘囚の長」の娘と結婚。

 俘囚は朝廷に帰服した蝦夷のことで、経清は義父の安倍頼時がその長を務め、現在の岩手県中央部に位置する「奥六郡」を当時、支配していたことから、その内部にも勢力を伸ばして江刺郡豊田(岩手県奥州市)に居館を構えた。

 ところが、こうした中、頼時が陸奥国府に対する年貢を怠ったことを発端にして「前九年の役」が勃発。国司がすぐに追討の軍を催し、宮城県の鳴子温泉に近い鬼切部(鬼首)で敗れたことから、朝廷は改めて清和源氏の棟梁だった源頼義を陸奥守に任命した。

 結果、頼時は頼義に服し、その任期が切れる直前に再び挙兵すると、彼の宿営を襲撃して衣川柵(奥州市)に拠り、この翌年に敗死したものの、嫡子だった貞任を中心に安倍勢が結束。

 国司軍は苦戦を余儀なくされ、頼義が出羽(現在の山形県と秋田県)の俘囚の長だった清原武則と武貞父子の力を借り、康平五年(1062)に厨川柵(岩手県盛岡市)を落として乱はようやく終結した。

 一方、清衡の父である経清はこの間、鬼切部の合戦の際に国司軍に属したが、同じく頼時の娘を妻に持つ平永衡が当時、安倍軍に寝返る事態が発生。彼はその後、再び反乱が起きた際は頼義の陣営にいたものの、国司軍にこの“前科”ゆえ、疑心暗鬼を抱かれて処刑されてしまった。

 こうなると、相婿だった経清にも当然、疑惑の目が向けられ、彼が私兵を率いて安倍軍に身を投じる中、清衡は戦役中の天喜四年(1056)に生まれ、七歳のときに結果、前述のように乱が終わったことから賊軍の立場に追いやられた。

 当然、清衡はこのときに処刑されても不思議ではなかったが、結果としてそうした事態には至らず、それどころか、母が父の敵と言える清原武貞と再嫁。

 安倍勢の最後の拠点だった厨川柵が落ちた際、現場にいた女性が戦利品として官軍の将に分配され、すでに妻に先立たれていた武貞が清衡の母を賜ったとされるが、それははたして、どうだろうか。

 というのも、武貞は父の武則が乱平定の勲功で陸奥鎮守府将軍となり、安倍氏に代わって奥六郡の支配を任されたことで、一緒に鎮守府のある奥六郡内の胆沢城(奥州市)に移住。

 ここは当時、安倍一族がよく治めていたこともあり、武貞は頼時の娘である自身の後妻はむろん、安倍一族と母系で繋がる清衡は統治に欠かすことができない存在と睨んでいたのではないか。

 一方、その清衡の名前は父の経清と義理の叔父である前出の平永衡に由来するとされる一方で、「清」の字は母が再婚した武貞の姓にも通じる。

 だとすれば、その真相にかかわらず、すでに清原一族に受け入れられる素地があったとも言え、必ずしも賊将の子として冷遇されたわけではなかったとも考えられる。

 一方、その継父である武貞にはすでに、前妻との間に真衡という嫡子がおり、後妻である清衡の母が家衡を産んだあと、清衡が二八歳だった永保三年(1083)、この三人の間で内紛が勃発。

 前出の頼義の嫡子で陸奥守に就いたばかりの源義家が、清原氏の惣領になった真衡を支持して内紛は収まったが、その死後に残る二人の“兄弟喧嘩”が始まった。

 なんと、家衡が兄である清衡の館に火を放って妻子らを殺害。辛うじて窮地を脱した清衡は義家と結び、金沢柵(秋田県横手市)に籠った家衡が寛治元年(1087)に降伏するまで戦いは続いた。

■中尊寺の堂舎完成時に「俘囚の上頭」と表現

 結果、清衡が清原氏と安倍氏の旧領だった出羽と奥六郡を手にした一方、朝廷は義家の行為を内紛に介入した「私戦」と見なし、翌年に彼を陸奥守から解任。

 清衡はその後、姓を藤原に戻し、いわば棚ぼた式に四代にわたった礎を築いたようにも映る。

 とはいえ、彼の幸運にはむろん、それなりの根拠があり、何よりも安倍氏の血筋だったことから武貞に冷遇されなかったことは大きい。

 確かに長兄である真衡の死は彼に幸運をもたらし、清衡は奥六郡の半分(三郡)を相続し、事実上、その後の清原氏の惣領格と見なされるようになった。

 だからこそ、不満を抱いた三男の家衡に殺害されそうにもなったのだろう。

 また、義家が真衡に続いて清衡を支持したのは、彼を清原氏の惣領格と認めていたからではないか。

 だとすれば、奥州藤原氏の繁栄は安倍氏の血を引き、かつ、清原氏に育てられた清衡だったからこそ成し遂げることができたと言える。

 当然、清衡にもそうした自覚があったようで、この世を去る二年前の大治三年(1126)に有名な中尊寺の堂舎が完成した際、落慶を祝う願文で自身を「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」と表現。

 後三年の役からしばらくたった頃、父である経清の本拠だった江刺郡豊田から平泉に館を移して四代にわたる都となった。

 一方、平泉はいわば俘囚が封じ込められた奥六郡の南で、蝦夷の勢力圏と律令国家の境界線から少し飛び出たところにある。

 清衡は俘囚にルーツがあると内外に宣言しつつ、平泉に移転することで律令国家の勢力圏に進出する意欲を示したのだ。

●跡部蛮(あとべ・ばん)1960年、大阪府生まれ。歴史作家、歴史研究家。佛教大学大学院博士後期課程修了。戦国時代を中心に日本史の幅広い時代をテーマに著述活動、講演活動を行う。主な著作に『信長は光秀に「本能寺で家康を討て!」と命じていた』『信長、秀吉、家康「捏造された歴史」』『明智光秀は二人いた!』(いずれも双葉社)などがある。

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  • 日刊大衆

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