夫が突然、家を出て行った。1年後、その本当の理由に気づいた妻が取った行動とは…

今年も、夏がやってきた。

青い空、燦々と降り注ぐ太陽。そしてバケーションへの期待。夏はいつだって、人々の心を開放的にさせるのだ。

そんな季節だからこそ、あなたは“夏の恋”を経験したことはないだろうかー?

東京カレンダーのライター陣が1話読み切りでお届けする、サマー・ラブストーリー。

先週紹介したのは、夏になると、夫ではないある男のことを思い出す妻の物語。さて、今週は…。


昨夜まで続いていた雨が嘘のように、空は青く澄み渡り、太陽がジリジリとアスファルトを照りつけている。

外に出るとまたたく間に、湿気を帯びた重苦しい空気が肌にまとわりついた。地下鉄の広尾駅の2番出口で、樹里は思わず顔をしかめる。

まもなく梅雨が開け、いよいよ本格的な夏がやってくる。

樹里は子どもの頃から、この季節が大好きだった。もうすぐやってくる夏休みへの期待。なにか面白いことが始まろうとしているようなワクワク感。

大人になっても、それは変わらなかった。年々蒸し暑さは確実に増している気がするのに、新しい季節の到来が待ち遠しくて仕方ない。

夏の夕方の空気を吸い込むと、胸の奥がキュッと締め付けられる。なぜならそれは、樹里が佑太郎と恋に落ちた季節だから。

佑太郎と出会ったのは、5年前の夏。

そしてその1年後に二人は結婚したが、結婚式も7月だった。だから樹里にとって、夏は幸せの象徴みたいな季節なのだ。

ちょうど昨年のこの時期も、樹里は大好きな夫と過ごす夏を心待ちにしていた。

—今年の夏は、何をしよう?

佑太郎と海に出かけたり、一緒に浴衣を着て花火大会に行ったり、夏季休暇に贅沢なリゾートでのんびり過ごしたり。

だが、そんな日々が訪れることはなかった。

夫が、突然別れを告げて出ていったのだ。

2019年、7月。あの日を境に、樹里の人生の時計の針は止まったままだ。

幸せな夫婦生活だと思っていたのは、妻だけだった。1年前、夫婦に何があったのか…

止まったままの、時計の針


「樹里、こっちこっち!」

広尾駅から約5分。レストラン『Ode』の扉を開けると、半個室の方から明るい声が聞こえた。

今日は、大学の友人・紗江と、ランチの約束をしている。こうして会うのは1月以来だった。

「5月に一度オンライン飲みはしたけど…やっぱりこうやって顔を見て話せると、嬉しいね」

「あれから樹里は、どうしてた?時間も経ったし、元気になった?」

昨年の今頃、佑太郎が出て行ってしまってから、半年間の別居期間を経て1月に離婚したのだ。

紗江の問いかけに、樹里は小さく頷いた。

紗江は、20代の頃に結婚と離婚を経験し、いわば“バツイチの先輩”だ。離婚のときにもずいぶん相談にのってもらった。

「紗江の方は?最近どう?」
「実は私、彼と年内に結婚することになりそう」
「えっ、そうなの?おめでとう!」

紗江は離婚してすぐに新しい彼ができて、それからずっと交際をしていたが、ついに結婚を決めたようだ。辛い経験もバネにして再婚を決め、逞しく突き進む彼女が、眩しく見える。

「樹里だって、あれから半年も経ったんだし。そろそろ、いい出会いあったんじゃない?」

樹里はあわてて首を横にふる。

「出会いなんてないよ。そもそも最近まで思うように外出もできなかったし、そんなのあるわけないじゃない」

咄嗟にステイホームを言い訳にしたけれど、仮に普段通りの日常だとしても、きっと状況は同じなのだと本当はわかっていた。

—紗江は、ちゃんと前に進んでるのに…。私だけ、時間が止まったまま。

うつむく樹里に、紗江は優しく微笑んだ。

「いい?樹里。経験者から一言だけアドバイス。次の恋愛も結婚も、早い方がいいよ。離婚なんて今時珍しくないし、33歳なんて再婚のチャンスもまだまだあるし」

「…うん。わかってる」

樹里はにっこりと笑ってみせる。

その後は、コースランチをデザートまで堪能して、食事を終えた。

紗江が化粧室に立った間、樹里はぼんやりと店内を見回す。

—佑太郎とも、こういうレストランでよく食事したっけ…。


結婚してからも、交際中と変わらず仲良しだった。お互い美味しいものが好きで、いろんなレストランでデートをしたのだ。

結婚3年。3年目に危機をむかえる夫婦は多いとよく聞くが、そんなものは無縁だと思っていた。

あの事件が起こる前日だってそうだ。樹里は、佑太郎とかわした他愛もない会話を思い出す。

「佑太郎、もうすぐ結婚記念日だね。今年はどこへ行く?」
「あ、結婚記念日…。そういえばそうだっけ」
「もう、忘れないでよ〜。結婚記念日兼、私の誕生日だよ」

3度目の結婚記念日を目前に控え、自分たちは幸せな夫婦そのものだと信じていた。だけど思い返せば、あの時の彼は様子がおかしかったかもしれない。

—そりゃ、そうだよね…。その翌日に、離婚届をいきなり突きつけて、家を出て行ったんだから。あの時にはもう決意してたんだ…。

いや、本当はそのずっと前からよそよそしかった。でも仕事で疲れているのだと決めつけて、深刻に考えなかった自分の鈍感さが恨めしい。



店から駅まで、紗江と一緒に歩いた。昼間の暑さはずいぶんと和らぎ、時折吹く風が心地よい。

「樹里、今日はこの後まっすぐ帰るの?」

「ううん、十番でヘッドスパ行って、夜は涼真と飲む約束してる」

「なーんだ。ちゃっかりデートしてるんじゃない。樹里と涼真、昔から仲よかったもんね」

涼真というのは、大学時代の友人の一人で、腐れ縁みたいな仲だ。なんでも言い合える男友達だが、男女の関係は一切ない。

「そういうのじゃないよ、涼真とはいつもサクッと飲むだけ。デートって言わないよ」

樹里はすかさず言い返すが、紗江はニヤニヤしている。ところが、別れる直前になって急に神妙な表情を浮かべた。

「樹里も涼真といい感じみたいだから、安心した。実は今だから言うけど…樹里に隠してたことがあったの」

「え、何?」

「ちょうど離婚した直後くらいだったかな。私、佑太郎さんにバッタリ会った。

…彼、女といたよ。ずいぶん親密そうだった」

離婚から半年たって、今さら知ったショッキングな真実。樹里は逆襲を決意する…。

捨てられた女の逆襲


ヘッドスパに行った後で、『新加坡肉骨茶 麻布十番店』に向かう。時々無性にシンガポール料理のバクテーが食べたくなって、涼真と一緒によくここに来るのだ。

約3ヶ月ぶりのヘッドスパですっかりリフレッシュしたはずなのに、頭からは紗江の別れ際の一言が離れない。

「樹里、むちゃくちゃ顔が怖いんだけど…何かあった?」

何も知らない涼真は、会うなりそう言って苦笑する。

樹里はこわばった表情のまま、紗江から聞いた話をそのまま伝えた。すると涼真の顔色も、サッと変わる。

「え…その話、マジ?なんで今さら…」

「紗江は当時、私がこれ以上傷つくのは見たくなくて、黙ってたんだって。もう離婚届も出した後だったし」

「だったらそのまま、黙ってくれてたらよかったのに…」

涼真は、深いため息をついてブツブツ言っているが、その呟きも耳に入らないほど、樹里は動揺していた。

「私、やっぱりバカだった。今になって後悔したの。あの時、明確な理由もわからないままだったのに、離婚を受け入れちゃったこと」

ちょうど半年前の、2020年1月。離婚届は樹里が一人で出しに行った。

夏に離婚届を置いて出て行ってしまった佑太郎とは、別居期間中に何度も話し合いを試みた。

だけどどんなに説得しても、彼は頑として別れたいという主張を曲げない。

理由は、「樹里とは価値観が違うと気づいて、5年後、10年後の未来を描けなくなった」。

芸能人の離婚じゃあるまいし、そんな表面上の理由を告げられても納得がいかなかった。

「他に、だれかいるの?」

勇気を出してそう尋ねたが、彼は違うと言い張った。もちろん、それを真に受けるほど樹里だって純粋ではない。

本当はあの時、真実を突き止めるべきだったと思う。でも、もう限界だった。

突然の別れを受け入れられず、眠れない夜が続いた。毎日連絡を待って、今どこで誰と何をしているのかを疑って、心も身体もボロボロになっていく。

すっかり疲弊した樹里は、何もかも嫌になってしまい、最後は逃げるように離婚届に判を押したのだ。

唇を震わせる樹里をなだめるように、涼真は言う。

「ちょっと落ち着けって。ほら、バクテーでも食べてさ。…でもさ、紗江がそれを目撃したのは、離婚後なんだろ?離婚前から不倫していたかどうかなんて、わからないじゃん」

「わかるよ。絶対、去年の夏には始まっていた関係だと思う。それに紗江に聞いたの、その女の特徴」

紗江から聞いた女の特徴は、ショートボブに小柄でアニメ声。樹里にははっきりとした心当たりがあった。

「その子、佑太郎のチームの後輩に間違いない。彼の同僚たちとうちでホームパーティーしたことがあって、会ったことがあるの」


そしてここに来る途中の電車の中で、決意したことがある。スマホで、ある情報を見つけたのだ。

「樹里、元気出せよ。過去のことなんだから真実はわからないし、今さらわかったところで…」

一生懸命励まそうと言葉をかける涼真を、樹里は遮った。

「ううん。離婚後でも、婚姻中の不貞が判明した場合は、3年以内であれば慰謝料が請求できるって記事を読んだの。もちろん証拠集めは簡単ではないけれど、相手が誰なのか目星がついていれば、探偵に依頼したら突き止められるケースもあるみたい」

涼真は呆気に取られて樹里を見つめている。

「まさか、樹里…」

「うん。私、真実を突き止めてみせる。絶対に、佑太郎とその女を許さない」

この半年間、周囲から言われてきた様々なこと。

“離婚なんて珍しいことじゃないよ。次に進まなきゃ”
“誰かいい人できた?再婚はしたいの?”

そう尋ねられるたびに違和感を抱き、その理由がいつまでも前に進めず引きずっているからだと気がついて、何度もそんな自分を責めてきた。

だけど、きっとそれは、真実をうやむやにしたまま逃げてしまったからだ。だから未来のためにも、白黒はっきりさせて蹴りをつけたい。

真実を調査することを決意した樹里。ところが涼真からあることを告げられて…

次の日、樹里はさっそく探偵事務所に連絡を入れ、翌週のアポイントを取った。

相談に乗ってくれた涼真にも、報告のLINEを入れる。

『そっか。来週、探偵事務所行くことにしたんだな。ところで今週末空いてる?ちょっと付き合ってほしい店あってさ』
『土曜なら空いてるよ。付き合ってほしい店ってどこ?またバクテーかなw』
『後で店のリンク送る!じゃ、土曜にね〜』

ところが、約束前日になって涼真から送られてきた店のリンクを見て、樹里は固まってしまった。

—え…なんで!?

夏の始まり


土曜18:00。涼真から指定されたのは、丸ビル35階にあるレストラン『サンス・エ・サヴール』だった。

店に向かう途中で、樹里は首をかしげる。

涼真とはいつもサクッと食事をするだけで、これまでおしゃれなレストランでディナーなんてしたことはない。どういう風の吹きまわしだろうか。

不意に、紗江から言われたことを思い出す。

“涼真といい感じなんでしょ”

—いやいや…。それはない。

涼真とは、正真正銘の友情を育んできたのだ。彼とだったら、同じ部屋で寝ても何もない自信がある。

とはいえTPOを考えて、一応オシャレはしてきた。離婚のストレスで衝動買いしたエルメスのサンダルのヒールを鳴らしながら、樹里は35階に到着した。


高層階のバースペースから見渡せる、東京の景色。なんともロマンチックな雰囲気にソワソワしていると、涼真が口を開いた。

「今日は、樹里に話があって…」

—きたっ…。

ごくりと唾を飲み込んだ。ところが、涼真は意外な言葉を続けたのだ。

「来週、探偵に行くって話だけど、やめてほしいんだ」

「へ…」

どうやら告白ではなかったらしい。ホッとしたような、拍子抜けしたような複雑な思いが顔に出ないよう、樹里は尋ねる。

「どういうこと?」

「だってさ、今さら真実を突き止めてどうするの?もしも不倫が事実だったら、彼らに謝罪させて、慰謝料も巻き上げて、確かに少しはせいせいするかもしれない。

でも過ぎたことを証明するのは簡単じゃない。そのぶん探偵に法外な費用だってかかるし、手に入る慰謝料なんてたかがしれてるだろ。そこまでした挙句、樹里には何が残ると思う?」

「それは…」

涼真の真剣な口ぶりに、樹里は口をつぐんでしまった。

「樹里に残るのは、心の傷。それだけだろ?せっかく最近やっと笑顔も見られるようになったのに、また半年前と同じ状態に戻るの?

後ろを振り返って、誰かを憎んだり恨んだり疑ったりして、最終的に手に入るものなんて何もない。だったらそのエネルギーを、ポジティブな未来のために使おう」

涼真は、そこまで一気に言い切った。普段おおらかな性格の彼には珍しい、熱のこもった口調だ。

「…俺、樹里には笑顔でいてほしいんだ。だから、探偵なんて行くなよ」

そしてその時、樹里は気がついたのだ。自分は前に進まなきゃと躍起になるあまり、逆に後ろを向いていたということに。

—私、相変わらずバカだな。何をやってるんだろ…。

鼻がツンとして、慌ててミネラルウォーターを喉に流し込む。

「涼真、ありがとう…」

やっとの思いでそう告げる。

こうして樹里は、真実に蓋をすることに決めたのだ。永遠に。

気にならないかといったら嘘になる。だけど、もう苦しみから自分を解放してあげたいと思った。

「私、もう過去にとらわれたくない。ゆっくりでいいから、未来だけを見て進んでいきたい」

涼真は、ホッとしたように笑った。

「今日のこのディナーは、誕生日プレゼント。来週、誕生日だろ。おめでとう、樹里」
「あ…そうだった」

そう言われて、はっと思い出す。

子どもの頃から、夏が大好きだった。もうすぐ誕生日がやってきて、幸せなことがたくさん起こる。いつもそんな期待でいっぱいだったから。

穏やかな笑みを浮かべる涼真を見つめていたら、忘れかけていたあらゆる感情が、一気に湧き上がってくる。

なにか新しいことが始まるような、高揚感。恋の始まりを予感させる、胸の奥のドキドキ。

心臓がドクドクと鳴り始め、1年前から止まっていた時計の針が、静かに動き出す。

樹里の夏が、今ようやく始まろうとしていた。


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