【ジャニー喜多川一周忌】アメリカへの歪な憧憬と平和の願い──戦後史として読むジャニーズの歩み

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──2019年7月、日本のエンターテインメントの礎を築いた稀代のプロデューサー・ジャニー喜多川が死去した。彼が体験した戦争、そして戦後の日本芸能界で作り上げた“アイドル”という文化、さらに舞台演出に込めた平和への思いを紐解く。

 巨星墜つ。2019年7月9日、日本を代表する芸能プロダクション・ジャニーズ事務所創設者のジャニー喜多川氏がくも膜下出血で逝去した。多くのメディアがその訃報と共に、ジャニー氏の「平和への願い」を書き記していたが、いったい彼はどのように「平和」を訴えてきたのか、その数奇な半生と共に振り返りたい。

CIAのスパイ説も囁かれた、ジャニー喜多川のアメリカ時代

 ジャニー喜多川氏は、アメリカ・ロサンゼルスで生まれた日系2世。布教のためにアメリカへ移住した真言宗米国別院の僧侶・喜多川諦道の次男として、1931年に誕生し、2年後の33年には一家で日本へと移住している。

「45年にジャニーさんは、和歌山大空襲に遭遇しています。この経験は彼の人生にとても大きな影響を与えました。当時の体験談を『蜷川幸雄のクロスオーバートーク』(NHKラジオ第一/2015年1月1日放送)で語っているのですが、多くの死体が転がる中を逃げ惑いながら“アメリカで生まれた僕がなぜアメリカ軍に攻撃されているのだ”と思ったと言います。彼は、アメリカと日本の狭間に複雑なアイデンティティを持っていた。それを決定付けたのがそのときの空襲体験なのです」

 そう語るのは、長くジャニーズ研究を続けてきた社会学者の太田省一氏。さらに、政治経済や国際情勢など幅広い分野で著述活動を行う社会学者の橋爪大三郎氏も、ジャニー氏が過ごした幼年期をこう分析する。

「2歳でアメリカから日本に来たことを考えると、幼少期は英語もほとんどしゃべれず、排日移民法の差別の記憶はおろか、アメリカの記憶も全然なかったはず。それでも、アメリカにいたことが同級生にバレればイジめられてしまうような時代ですから、苦労したんじゃないでしょうか。終戦後の1947年には再びロサンゼルスのハイスクールに戻ったそうですが、そこでは日本人としてイジめられ、英語も必死に覚えないといけなかったでしょうから、こちらでも大変に苦労したと思います」

 そんなジャニー氏は、ロサンゼルスで日本芸能界への最初の足がかりを手にする。50年に訪米した美空ひばりや服部良一らの通訳を務めることになったのだ。この経験が日本で芸能事務所開設を目指すきっかけにもなったという。52年に再び日本の地へ降り立ったジャニー氏は、駐日アメリカ合衆国大使館に陸軍犯罪捜査局の情報員(通訳の助手)として勤務。朝鮮戦争に従軍して戦災孤児に英語を教え、帰国後はアメリカ合衆国大使館の職員として働いた。

「戦後すぐの日本のショービジネスは米軍基地にありました。米軍の将校や兵士を相手にショーをすれば、一晩で当時のサラリーマンの月給2カ月分が稼げたのです。美空ひばりさんや江利チエミさんも基地で歌っていたし、それをオーガナイズする人も多かった。若いので初めは通訳などいいように使われていたかもしれませんが、ジャニー氏は基地に自由に出入りできたので、その時代に多くのコネクションを築いたのではないでしょうか」(橋爪氏)

 ちなみに、日本と米国の二重国籍者であるジャニー氏は、その経歴からのちにCIAのスパイではないかと噂されることもあった。

「可能性はなくもないと思います。いろんな部署が情報を集めるために動いているし、その誰かとコネクションを持っていても不思議はない。軍や大使館というのは諜報機関で情報の塊ですからね。ただし、さすがに本人がシークレットエージェントということはないのではないでしょうか」(同)

 当時、ジャニー氏が住んでいたのはワシントン・ハイツ。現在の代々木公園一帯にあった、米軍住宅地である。ここで、少年野球チーム「ジャニーズ少年野球団」を結成したジャニー氏は、ある日、チームに所属する4人の少年とミュージカル映画『ウエスト・サイド物語』を観て感銘を受ける。その4人の少年(のちのジャニーズ)と62年に設立したのが、ジャニーズ事務所だ。

「ジャニーさんのエンターテインメントのベースはアメリカのショービジネスでしたが、ただアメリカの真似はしたくないとも考えていたのではないでしょうか。そこでオリジナルミュージカルを作ろうと考えたのです。ポジティブに言えば日米どちらにもアイデンティティがあるけれど、裏を返せばどちらにもなれないという不安定さもジャニーさんの中にはあったと思います」(太田氏)

 アメリカへの歪んだ憧憬は、日本の芸能界にもいびつな影響を与えていく。

「アメリカのショービジネスは、ステージでのパフォーマンスの対価に金をもらうというシンプルなものでした。オーディエンスはアーティストを観に行くのであって、欧米では事務所がコンセプトを考えて、衣装を決めて、メディア露出の世話をするなんてことはあり得ない。ステージごとにオーディションをして主体性のあるアーティストをそろえるという方法もあったはずなのに、なぜ少年たちを集めたのか疑問です」(橋爪氏)

 ジャニー氏はアメリカショービジネスのオーディエンス、つまり観たことがあったというだけで、その本質の体現者ではないと、橋爪氏は指摘する。確かに日本の芸能界が欧米のような成熟したアーティストではなく、未成熟なアイドルを求めるようになっていったことには、ジャニー氏の影響も大きいだろう。ではいったい、ジャニー氏にとって少年とはなんだったのだろうか?

「ジャニー喜多川の表現活動にとって最も大切な要素こそが“少年”なんです。今年、映画化された『少年たち』は、抑圧された牢獄のような世界から逃れ、自由になるため少年たちが戦う物語で、そこには希望が表現されています。ジャニーさんにとって“少年”とは、アメリカをお手本としながら戦後の日本人が獲得した個人の自由を象徴する存在であり、それはアメリカから民主主義を授けられた戦後の日本人を示しているとも考えられます」(太田氏)

 日本人でもありアメリカ人でもあったジャニー氏は、戦争に翻弄され少年時代の多くの時間を傷ついて過ごした。戦後民主主義という希望を“少年”に仮託することは、自分自身の原体験を救済するためでもあったのかもしれない。

『少年たち』は、69年にフォーリーブスが演じた「少年たち─小さな抵抗─」を元にした舞台で、2010年にA.B.C-ZとKis-My-Ft2主演で上演されて以降はジャニーズJr.たちによって定期的に公演が打たれる、ジャニー氏にとっても思い入れの強い舞台。テレビやコンサートなどジャニーズのエンタメはさまざまだが、この舞台という表現にこそ、ジャニー氏の思想が最も現れていると、ジャニーズ研究サークルの代表が語る。

「90年の少年隊主演『PLAY ZONE MASK』や、現在も堂本光一が主演する『Endless SHOCK』の元になった91年少年隊主演『PLAY ZONE SHOCK』、滝沢秀明の『滝沢演舞城』『滝沢革命』シリーズ、『DREAM BOYS』シリーズなど演出を手がけたものはたくさんありますが、特にジャニー喜多川色が強いのは『JOHNNYS’ World』シリーズと『少年たち』、『ABC座』シリーズです。中でもやはり『JOHNNYS’ World』にはジャニーさんの世界観が相当強く出ています」

 12年から始まった『JOHNNYS’ World』はいち早く戦争描写が取り込まれたジャニーズ舞台。初演版ではジャニーズの曲「裸の少年」(66年発売『ジャニーズとアメリカ旅行』収録。作詞にはメンバーの中谷良がクレジットされているが、中谷の自伝によれば、実際の作詞はジャニー喜多川氏)の歌唱シーンがあり、上半身裸のJr.が肩に銃をかけて歩くシーンが登場した。その後も、回を重ねるごとに東京大空襲、特攻隊、硫黄島、学徒出陣などのシーンが追加されていく。

 また、少年刑務所脱獄の話だった前述の『少年たち』も、SixTONESとSnow Manが演じた『少年たち 世界の夢が…戦争を知らない子供達』(15年)は、主演のジェシーが徴兵され戦死するというこれまでのストーリーを逸脱した衝撃的な結末で、多くのファンを驚愕させた。同作は今年3月に映画化されたが、当初の予定では戦争描写の多いこの15年版を下敷きにする考えもあったという。しかし、予算の都合で断念したことをプロデューサーが明かしている。

「長くジャニーズの舞台を観てきましたが、12年の『JOHNNYS’ World』以降、戦争のモチーフが濃くなっていったという印象です。この背景には、12年にジャニーさんが溺愛した北公次が亡くなったことや、東京がオリンピック候補地に選出されたことなど、いくつかの要素が考えられます。17年の『JOHNNYS’ YOU&ME IsLAND』では地震や原発事故、テロなど世界中の災難について言及する中で“なんで人間は殺し合うんだろう”“明日にも隣の国からミサイルが飛んでくるかもしれないのに、のんきにしていていいのか”“平和とは何か、もっと学ばなければ”などの台詞が加わったように、その時々の世界情勢がジャニーさんの舞台演出に与える影響は小さくありません」(前出・サークル代表)

 15年は戦後70年を迎えた年。世間的にもいかに戦争体験を語り継いでいくべきか議論となり、多くのドキュメンタリー番組などが作られた。世界各国でも保守政党が躍進し、国内では憲法改正の議論が巻き起こるなど時代の空気感が変わりつつあった。そんな流れをいち早く察知したのも、ジャニー喜多川氏がアーティストだったからにほかならない。

「ジャニーさんも80代になりました。堂本光一や滝沢秀明などが成長し、ジャニーズのショービジネスの部分は安心して任せられるようになったけれど、戦争については自ら語って残さなければならないと考えたのかもしれません。日常の延長であるテレビとは違い、舞台は作品としてメッセージを込めやすい。だからこそ、舞台にはジャニーさんの平和へのメッセージが色濃く反映されてきたのだと思います」(太田氏)

 一方で、舞台作品そのものの評価としては、ジャニー喜多川の演出は決してわかりやすいものではなかったようだ。

「脈略がなく歌が始まったりして、いわゆる『まともな物語』からは逸脱しているんです。戦争シーンも唐突に挟み込まれるので、どの程度本気でやっているのかは謎です。それに、結局はファンも“推し”を観に行っているので、あまり内容は気にしていない(笑)。ただ、先日の参議院選挙のときには、SNS上でジャニヲタが“戦争反対をうたっていたジャニーさんの思いを考えて投票に行きたい”と言っていたことを考えると、無意識のうちに私たちの中に反戦意識が植え付けられていたのかなと思います」(前出・サークル代表)

 NHKのドキュメンタリーは観なくても、ジャニーズの舞台は観るという10代は少なくない。その意味では、ジャニーズの舞台は若者が平和へのメッセージをダイレクトに受け取れる場になっていたのかもしれない。

「ジャニーズ流エンターテインメントの本質は“なんでもあり”です。ブランコあり、和太鼓あり、最新のダンスが披露される一方で、美空ひばりや服部良一の歌謡曲が普通に歌われる世界。言葉だけでなく、イメージで伝わるんです。ジャニーさんの言う平和というのは、大きく言えば“反戦”だけど、どちらかというと“平和っていいよね”というシンプルな感覚だと思います。朝鮮戦争の戦災孤児に英語を教えていたことや、ワシントン・ハイツで少年野球チームを作ったのも同じことで、子どもたちが暗い顔をしているのはよくないという考えです。今の時代に言葉にするとうさんくさく聞こえるかもしれないけど、戦後の高度経済成長前夜、つまりジャニーさんが“少年”時代に抱いた、シンプルで強い平和への思いが、これまで彼を突き動かしてきたんだと思います」(太田氏)

 アメリカへの憧れが生み出した日本独自の世界観。ジャニー喜多川氏が歩んだ人生は、言うなれば戦後史そのものだ。そして戦後が終わった。これからの日本、そしてこれからのジャニーズがどうなっていくか見守っていきたい。

(文:森野広明/「月刊サイゾー」2019年9月号より)

  • 7/9 12:00
  • サイゾー

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