「天気の子」社会に逆らう美少女ゲーム的選択肢。アニメの女の子は可愛いほうがいい理論を考察

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「天気の子」は「00年代美少女ゲーム(成人向け含む)を思い出す」という意見が、サブカル・オタク界隈でよくあがってくる。
もっとも、美少女ゲーム文法にのっとった作品を作ったわけではない、というのはインタビューで新海誠自身が明言している。

元々新海誠は美少女ゲーム会社minoriなどでオープニングアニメーションを作っており、自身のサイトで作品を掲載している。
なので、美少女ゲーム文法のさじ加減は十分意識しているだろう。知らない人から見たら、多分気にならないと思う。
それでも同時多発的に「美少女ゲームを思い出す」という声がネットに溢れかえったということは、何かしら想起させる引き金があるからだ。
このあたりを「少年を成長させるヒロイン像」「設けられた選択肢」の二点から掘ってみたい。
ネタバレありです。

1・少年を成長させるヒロイン像


以前、札幌の「天気の子」舞台挨拶で陽菜役の森七菜が、新海誠監督から「リアルな演技をしようとしたら「もっとかわいく」と監督からいつも指示がでた」という旨のエピソードを語っていた。
それを聞いた新海誠監督はすかさず「アニメの女の子はかわいいほうがいいからね」と返した。

陽菜には、「少年を成長させるアニメのヒロイン」としての様々な特徴が盛り込まれている。
まず明るくタフなメンタル。主人公の帆高に助けてもらうと同時に、「年上」として引っ張る役になり、彼の成長を大きく促している。序盤のハンバーガー屋での優しさや、銃を撃ったことへの厳しい批判など、彼女の存在は帆高の価値観と視野をどんどん変えていく。
笑顔の裏に苦しみを隠しているというのもポイントが高い。「ぼくだけが彼女の本当を色々知っている」というスイッチは、男の子を駆り立てる。貧困生活についてあまり悲観していない生き方も、印象に残る。
そして親がいない。帆高が勢いで家出しているのも含めて、親の介入がカットされたことで、子どもたちの成長に対しての「大人の常識的上限」が消失した。
陽菜が特異な力を持っているということで、少年の「当たり前」は失われ、価値観は相対的に問われることになる(「ラピュタ」のシータなんかもこれ)。
ここから、「実は年齢を偽っていて自分より年下でした」なんて秘密まで持ち出されたら、少年をがむしゃらに突き動かすヒロインとしては完璧だ。

2・帆高の前に現れる選択肢


「天気の子」は、帆高が何度も「選択」する作品。分岐点となるシーンが大量に出てくる。
大きなところだと、帆高と陽菜と弟の凪が、警察の命令に背いて逃げ出すシーン。社会に反逆した瞬間だ。
小さい選択肢だと、自転車を盗もうとしたシーン。乗って逃げようと「盗む」を選んだら、チェーン鍵がかかっていて時間ロス、プレイミス、みたいな展開。ノベルゲームの選択肢ボックスが頭に浮かぶ。

社会の法に逆らう場面の数々。少年の軽犯罪オンパレード映画だ。
帆高が線路の上を必死に走っていくシーン。もちろん法律違反で、色々な人に注意される。線路からだと、この作品の鍵である空がずっと見える画面構成になっているのがうまい。
序盤、偶然すぎるタイミングで銃を拾う帆高。劇に銃が出てくる場合「なんらかの理由で使われなければいけない」という「チェーホフの銃」の理屈にのっとり、二回撃つ。引き金は二回とも、陽菜のために引かれた。ここも、重大な選択肢。どちらも「引かない」という選択もできたシーンだ。

帆高の選択は、一般的正義や多数の幸福に逆らうものばかりだ。
「君の名は。」では街を救うために犯罪(変電所爆破)を犯す選択をした。しかし「天気の子」では犯罪を犯しつつ、一人の女の子のために東京を海に沈めてしまった。

パンフレットでは「『君の名は。』に怒った人が、もっと怒ってしまうような映画。それが今作の最初のイメージだったかもしれません(笑)。」と新海誠は述べている。
舞台挨拶では、「こうでなければいけない」にあわせるだけじゃつまらない、映画なのだから逆らいたい、という旨を語っている。

セオリーから外れることと「知らんがな」


篠房六郎作「おやすみシェヘラザード」の第27夜では、本質に切り込んだ「天気の子」論が繰り広げられている。
「面白かったんだけど、も。」というキャラクターたちの会話は、この作品を見た人ならわかる感想だろう。
「だってさホラ、あの映画にはー「知らんがな」の世界が、一貫してあったからー」

パトカーの中、補導された帆高が陽菜の実年齢を知るシーン。
帆高の「守られていた」と「守りたい」が逆転する重要な場面だ。年齢詐称していた理由がわかると、強く生き続けてきた陽菜の魅力が見えてくる。
しかし感情が暴れる帆高に対して、警察官側としては「知らんがな」だ。
警察官視点だと、帆高は自分の犯した罪について反省の色なし、家出少年に騒がれても困ってしまう、というところ。

「物語のセオリーから外れた(のかもしれない)物語を、夏休み興行の映画でやることだと思っています。」「たくさんの人が同時期に体験する、ある種のお祭りとして、皆さんにぶつけるべき作品。」(パンフレットより)
新海誠は最初から、このラストの賛否両論が出ることを予想して、あえて投げ込んだようだ。
それは見事に的中。賛の人も否の人も、心に「どうしてそっちを選んだ?」とザワザワを抱えることになり、Twitterに感想があふれかえった。

ラストシーン。大雨で沈んだ街を移動する景色は、とてもきれいだ。
毎日雨でもお花見を楽しむポジティブさが見えたりして、人々は割とあっけらかんとしているのがわかる。帆高が陽菜を救うために生まれた雨の中の世界は、思ったより平和だ。
「ヒロインのために社会と戦う選択をした男の子」を、この作品は肯定した。みんなの幸福を天秤にかけて捨てたのも「あり」とされた。

美少女ゲームの中には、何周もして情報を獲得する、トゥルーエンド(一番真実に迫るエンディングのこと、大抵一発ではたどり着けない)を目指す構造のものがある。これによって多面的な物語性と、文化や人間への批評性を内包する特殊なゲームジャンルになった。
「天気の子」はもちろん一周しかない。ただ帆高のテンションの高さと大人たちの冷静な視線の比較、陽菜に向かう数多くの分岐選択で、数多くの「もしも」が含まれていた。
最後の選択をした帆高を見てしまった後、作品で描かれるキャラクターと「東京」について、様々な可能性を考えさせられてしまう。今回のはグッドエンドなのか、トゥルーエンドなのか…?
「美少女ゲーム的」というのは、物語の深みと広がりに対しての、ファンからの褒め言葉だ。


とはいえ、やっぱり映画だと描ききれない「におわせ」が山ほどある。須賀がなぜ洪水後に窓を開けて部屋を水浸しにしたか、とか。
ここは「君の名は。」の時同様に、須賀や夏美、老婦人の冨美、リーゼント警察官ら一人称視点で、スピンオフ小説による補完を期待したくなる。

(たまごまご)

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