平成改元から30年。新元号はいかにして決まるのか徹底考察

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元号が昭和から平成に改まってから、きょう1月8日でちょうど30年が経った。その平成もあと4ヵ月ほどで終わろうとしている。

平成がスタートしたその日、1989年1月8日、時の首相・竹下登は午前10時前に官邸に入ると、記者団から「平成元年の朝を迎えた気持ちはどうか」と訊かれ、きまじめな表情で「平静です」と答えたという。

「昭和」までの元号は、そのときどきの天皇や重臣の主導で決められてきた。これに対し「平成」は、政府が法律(元号法)にもとづいて政令で決めた最初の元号となった。したがって、竹下登は平成の元号を選んだ張本人ということになる。

なぜ新元号に平成が選ばれたのか。そもそも誰が発案したものなのか。それについてはいまなお公表はされてはいない。しかし改元前後には新聞などマスコミ各社が丹念に取材しており、そこで得た情報を整理した記録からかなり判明しているところがある。ここでは、読売新聞政治部『平成改元』(行政 出版局)と毎日新聞政治部『ドキュメント新元号平成』(角川書店)を主に参照しながら、その経緯を振り返ってみたい。

墨が生乾きだった「平成」の2文字


平成の元号が、時の内閣官房長官・小渕恵三(のちの首相)から発表されたのは、施行の前日、1989年1月7日午後2時36分のこと。この日午前6時33分に昭和天皇が崩御してから(発表は同7時55分)、わずか8時間しか経っていなかった。

新元号が平成に決まったのは、その発表の18分前に終了した全閣僚会議においてだった。そこから間髪を入れず、首相官邸の首相秘書官室より総理府の内閣内政審議室へ電話で新元号が伝えられる。これを受けて、隣りの会議室で待機していた内閣官房人事課辞令専門職の河東純一が、やや太めの筆で奉書紙(墨を吸い取りやすい厚紙)に一気に「平成」と4枚したためると、4枚目は白木の額に入れた。

「平成」の書を入れた額は、厚紙の箱に納められたうえ、さらに紺色の風呂敷に包まれると、わずか道路1本で隔てた首相官邸へクルマで慎重に届けられた。首相官邸別棟の記者会見室に小渕が入り、正面の会見机の前に着席すると、秘書官の石附弘が駆け寄って、風呂敷のなかから額を取り出して手渡す。小渕は会見を始めるや、「新しい元号は『平成』であります」と大きな声で、ゆっくりと切り出すと、その額を掲げた。慌ただしく書かれた「平成」の2文字は、近寄ればまだ墨が生乾きなのがわかるほどだったという。記者会見の生中継を含むこの時間のNHKのニュース視聴率は平均21.4%を記録、これに民放分を加えると、もっと多くの国民がこの瞬間を目にしたことだろう。

小渕は前年の1988年9月に昭和天皇の容体が急変した直後より、秘書官らと崩御当日の報道機関の対応を事細かに協議してきた。会見で額に入れた書を掲げるというアイデアは、ときには報道側にも打診しながら検討に検討を重ねた末、生まれたものだったという。のちに小渕は、《結果的にああいう形になってよかったと思います。テレビ時代のやり方ということですかね》と語っている(『平成改元』)。

ちょうど小渕の会見中、午後2時40分すぎには、新元号を定める政令文書に新天皇が署名し、「平成」は公布されるにいたった。なお、天皇には、新元号は先の全閣僚会議で決まってすぐ、事務方の官房副長官・石原信雄から宮内庁長官・藤森昭一を介して伝えられていた。

元号「公募」も検討?


官房長官の小渕は、首相の女房役として新元号選定にあたり表に裏にと手順を整える役割を担った。前年の10月には、専門家たちから提出された元号案の一覧表を自宅に取り寄せ、何度も見直したという。しかし、いい案と思うと会社の名前などに使われていたりと、案の絞り込みには苦心する。あげく、ふいに「元号案を公募したらいいのだが」と周囲に漏らしたこともあったらしい。

もちろん公募することなどできない。ただ、1979年に成立した元号法の審議中には、野党から公募を提案されたこともあった。これに対し、当時の総理府の三原朝雄総務長官は、「元号は皇位継承のあった場合にできるだけ速やかに決めるという法の趣旨になじまない」として退けたものの、元号選定方法の一つとして公募が検討対象にのぼったことは認めている。元号を担当してきた歴代の内閣関係者からも、元号選定の密室性を排除すべきとの考えから、審議会方式や公募を採り入れてもいいのではないかとの意見もあがったという。

国民参加の構想をめぐっては、元号法成立後も政府内で議論が続いた。そこでは長らく「政府が元号を決めるにあたっては、国民の代表である立法府の衆参両院正副議長の意見を聞くのだから、国民の意見を聞くのはそれで事足りる」「有識者を加えると秘密が保てない」との意見が大勢であったが、竹下内閣になって急転、有識者による「元号懇談会」開催の方針が決まる。小渕はその理由を《国民みんなに新元号を使ってもらうには、新元号決定に国民も参加している形がベター》と説明した(『平成改元』)。

民間から8人の有識者を集めての「元号に関する懇談会」は、昭和天皇崩御後、1月7日午後1時より開かれた。そのメンバーは、マスコミ界3人(NHK会長、日本新聞協会会長、日本民間放送連盟会長)、教育界2人(私立大学連合会会長、国立大学協会会長)、学識経験者2人(統計力学の久保亮五、インド哲学の中村元の両東大名誉教授)、女性評論家1人(元国立婦人教育会館長)という構成になった。

懇談会には「平成」「修文」「正化」の3案が出され、結果的に懇談会の多数意見との理由で「平成」が決まる。もっとも、論議に設けられた時間は、挨拶や各案の説明などを除けば正味わずか20分間にすぎず、出席者からは会の終了後、「短すぎる。本当に議論したら、一日かけてもまとまらないかもしれない」「懇談会として一つの案にまとめると思っていたが、各自の意見を政府が参考に聞く形だった。内容にも議論の余地を残した」との感想もあがった。それでも、この懇談会が、国民が元号選定に参加する第一歩であったことは間違いない。

「平成」の発案者は誰か?


政府は元号法が成立した直後より、新元号の文字案を用意するため、漢文学などの専門家数名に考案を委嘱している。それから10年近く、考案者が亡くなるとまた新たに専門家に加えて案の提出を求めてきた(所功『「新元号」はいかにして決定されるか 文春オピニオン2018年の論点SELECTION』文春e-Books)。

「平成」の元号は誰が提案したものなのか、政府は現在にいたるまで公表していないが、マスコミが取材して得た情報などから、東洋史学者の山本達郎が発案者と推定されている。

もっとも改元以前、漢学者の諸橋轍次が編纂した『大漢和辞典』の巻四(1957年初版)の「平」の項には、熟語として「平成」が出てくる。そこには元号の平成の典拠となった『書経』の「大禹謨(たいうぼ)」も紹介されている。諸橋は政府に元号案を委嘱された一人だったことから、彼が発案者ではないかと見る向きもあった。また、歴代首相の御意見番として知られた「昭和の陽明学者」安岡正篤ではないかとの説も出た。実際、関係者からは、安岡と雑談していたときに平成という言葉を教えてもらったとの証言もある。

しかし諸橋も安岡も改元の前に亡くなっている。政府は新元号の選定にあたり、物故者の案は採用しない方針を立てていたので、両者とも発案者ではないことになる。ただ、委嘱を受けていた彼らが「平成」を候補にあげたり、また、没後もほかの発案者に影響を与えた可能性は十分にあるだろう。

元号の典拠にふさわしいのは漢籍か、国書か?


従来の元号は、「平成」を含めて中国の古典である漢籍を典拠としてきた。これに対し、平成に代わる次の元号は日本の古典(国書)からとるべきだという意見も出ている。こうした主張はじつは平成改元前にもあり、『日本書紀』や『万葉集』などが典拠の候補にあげられていた。

このため政府でも、典拠を漢籍にすべきか国書にすべきか、内々にある学者に相談したようだ。しかし結果として、最終原案に残った3案はすべて典拠は漢籍となった。これは、前掲『平成改元』によれば、「新元号を定着させるには、国民に意味を理解してもらう必要がある」との前提からすると、国書には思想や哲学を説いたものが少なく、漢字を使っていても音を利用したにすぎないケースが多いことを考慮した結果らしい。

漢籍か国書かという典拠をめぐる議論について、元号問題にくわしい法制史学者の所功は、《漢籍は中国のものと思わず、漢字文化圏の共有財産ととらえるべきだ》《漢字文化の元号というものを構成するうえで、何からとるかといえば、やはり漢籍が一番ふさわしい》と、平成改元直後に語っている(『平成改元』)。

所功は最近でも、著書『元号 年号から読み解く日本史』(久禮旦雄、吉野健一との共著、文春新書)において、《千年以上前から日本で受容され、熱心に受容されてきた漢籍を出典とする慣習は、一挙に変えられない(変えるべきでない)》として、《むしろ過去に出典つきの年号案として勘申されながら未だ採用に至っていない文字案が何百もあるのだから、それを活用することを考えてもよい》と提言している。実際に、何度か候補にあがった末に採用にいたった文字案はけっして珍しくはない。「大正」は5回目、「明治」は11回目にして採用された。「平成」も、慶應改元時に候補となっていたことがわかっている(もし、このとき採用していたら慶應義塾は「平成義塾」になっていたかもしれない!?)。

国民にすぐに受け容れられた「平成」


新元号・平成は、発表直後より国民におおむね好感をもって受け容れられた。読売新聞社が1989年1月7日午後から8日夜にかけて行なった世論調査では、新元号に対し「好感を持っている」と答えた人が61%を占めた(『読売新聞』1989年1月10日付)。平成になって初めて官公庁の一般業務が始めた1月9日には、社名に新元号をつけようという人たちが法務局に詰めかけている。このほか、当時の新聞紙面をひもとくと、改元当日に生まれた子供に平成にちなんだ名前をつけたいと語る人や、岐阜県武儀町(現・関市)の平成(へなり)地区で住民がにわかに盛り上がったりと、昭和天皇の諒闇のなかで人々が新たな時代に希望を見出すさまがうかがえる。

おそらく今度の改元は、天皇崩御とは関係がないだけに、もっと明るく、よりお祭りに近いムードで迎えられるのではないか。30年前を振り返ると、つくづくそう思われる。
(近藤正高)

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