ブルーザー・ブロディ殺人事件The Murder of Bruiser Brody――フミ斎藤のプロレス読本#046【特別編】ブロディ・メモリアル・ストーリー

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 1988年7月16日

 あまりにもショッキングな事件だった。1988年7月16日、プエルトリコ・バヤモンのルブリエル・スタジアムのドレッシングルームでブルーザー・ブロディが殺害された。

 犯人はプエルトリコの老舗団体WWC=ワールド・レスリング・カウンセルの共同オーナー(当時)のひとりで、レスラー仲間のホセ・ゴンザレスだった。

 ブロディがサンファン空港に降り立ったのは事件の2日まえの7月14日、木曜の夜。翌日から3日間のツアー日程が組まれていた。

 日本をホームリングにしていたブロディにとって、プエルトリコは年間スケジュールのあいまをぬって短期間のツアー活動をおこなう“第2のホームリング”だった。

 ブロディ=本名フランク・ドナルド・グディッシュは1946年6月18日、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれで、少年時代をミシガン州デトロイト郊外で過ごした。

 1964年、フットボール奨学金を取得してアイオワ州立大に入学。その後、ウエストテキサス大に転学。NFLワシントン・レッドスキンズ、CFLエドモントン・エスキモーズに在籍後、1973年にプロレス転向。1976年、WWWF(現在のWWEの前身)でブルーザー・ブロディに改名した。

 1979年1月、師匠にあたる“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックのブッキングで全日本プロレスに初来日。ドリー・ファンクJr、ジャンボ鶴田と“復活”インターナショナル王座をかけて名勝負をおこない、スタン・ハンセンとのミラクルパワー・コンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』優勝(1983年)。

 1985年、新日本プロレスに電撃移籍するが、1987年に古巣・全日本プロレスにUターンした。

 生きていたら、ことし71歳。アメリカでは第二次世界大戦後の“ベビーブーマー世代”で、日本式にいうならば“団塊の世代”である。

 全盛期のブロディの試合――必殺技キングコング・ニードロップ――をはっきりと記憶しているプロレスファンは40代後半よりも上の世代だろう。

 あの日、事件現場にいたレスラーのうちの何人かはこの世を去り、ほとんどの選手、関係者もすでに引退している。

 プエルトリコのプロレスは、スペイン語をネイティブ・ランゲージとするプエルトリカンと英語を母国語とするアメリカンのふたつのカルチャーが融合する場所として知られている。現在でもこの基本モードは変わっていない。

 事件の前日(7月15日)、ブロディは“刺殺犯”ゴンザレスとビクター・キニョネスのふたりと一台の自動車に同乗し、ツアー1日めの試合会場に向かった。ブロディとゴンザレスはこの時点ではふつうに会話を交わしていたという。

 移動中の車のなかでは、ブロディが支払いを滞納していたとされるプエルトリコの税金(所得税)のことが話題になった。

 ツアーに参加したアメリカ人レスラーたちはサンファン市内の“エル・カナリオ”というホテルに宿泊していた。事件当日、ブロディはダッチ・マンテル、トニー・アトラスの2選手といっしょに地元のジム経営者が運転する車に乗ってルブリエル・スタジアムに向かった。

 3人がスタジアムに到着したのは午後7時過ぎ。事件現場となったベビーフェース側のドレッシングルームにはインベーダー1号(ゴンザレス)、カルロス・コロン(WWCオーナー)、ビクター・ヨヒカ(同共同オーナー)、TNT(サヴィオ・ヴェガ)、ミゲル・ペレスJr、インベーダー2号(ロベルト・ソト)、ウラカン・コステロJr、マーク&クリスのヤングブラッド兄弟らがいた。

 ブロディはこの日、ダニー・スパイビーとシングルマッチをおこなう予定だった。マスクマンのインベーダー1号ことゴンザレスは、インベーダー2号とのコンビでロン&チッキーのスター兄弟とコールマイナー・グラブ・マッチで対戦することになっていた。

 ゴンザレスが「アミーゴ、ちょっと来てくれないか」とブロディに声をかけ、ふたりはドレッシングルームの奥のシャワー室へと消えていった。

 ゴンザレスの右手には白いバスタオルが巻かれていた。タオルの下には凶器となったナイフが隠されていたとみられている。

 それから数分後、ドレッシングルームにいたほとんどのレスラーたちがブロディの悲鳴を聞いた。

 血だらけになった腹部をみずからの左手で押さえながら、ブロディがシャワールームから出てきた。足どりはしっかりしていて、場所を確認するようにしてゆっくりとドレッシングルームの床によこになったという。腹部と胸を3カ所、刺されていた。

 アトラスはたまたまシャワールームのすぐ外側に立っていて、ブロディとゴンザレスの口論を耳にしていた。マンテルはスタジアムの観客の入りぐあいを確認しにいっていたためその場にはいなかった。WWCのボス、コロンも席を外していた。

 マンテルがドレッシングルームに戻ってくると、クリス・ヤングブラッドが「ホセがブロディを刺した!」と叫んでいた。マンテルがその“ホセ”がインベーダー1号=ホセ・ゴンザレスだということを理解するまでにさらに数分間の時間を要した。

 フロアによこになったブロディを数人のレスラーたちが取り囲んでいた。会場警備の警察官数人がドレッシングルームに入ってきたが、なにもせずに出ていった。

 アトラスが警官のひとりになんとか状況を説明しようとしたが、その警官は英語がわからない様子だったという。プエリトリコの試合会場では乱闘騒ぎは日常茶飯事だった。ゴンザレスもすでにその場から姿を消していた。

 救急車はなかなかやって来なかった。ビクター・キニョネスが機転を利かせ、地元のラジオ局に電話を入れ、ラジオ放送で島内の救急車をスタジアムに大至急搬送するように手配させた。

 緊急医療チームがようやくドレッシングルームに到着したのは、それから約40分後だった。ブロディの意識ははっきりしていて、急を聞いてかけつけたコロンに向かって静かな口調で「オレの家族をどうかテイクケアしてくれ」と頼んだという。

 救急部隊が数人がかりでもブロディの体を持ち上げることができなかったため、アトラスがブロディを抱き上げてストレッチャーに乗せた。

            ★           ★

 ホテルに帰ったマンテルがブロディの死を知ったのは、翌朝(7月17日)の午前7時半ごろだった。英語を話せるホテルのクラークに病院へ確認の電話を入れてもらうと、ブロディは集中治療室のベッドの上で午前5時40分に息をひきとったとのことだった。直接の死因は大量失血だった。

 17日に予定されていた興行はキャンセルとなったが、ブロディの死については団体サイドから選手グループにはなにも説明はなかった。マンテル、アトラス、スパイビー、ロン・スターらアメリカ人レスラーがホテルで待機していると、マンテルの部屋に地元の関係者から「島を出たほうがいい」と電話が入った。

 プエルトリコをツアー中だったアメリカ人グループのほとんどは、その日のうちに荷物をまとめてアメリカ本土行きの飛行機に乗った。

 ゴンザレスが殺人容疑でサンファン警察に逮捕されたのは事件から3日後の7月19日だった。ゴンザレスは12万ドルの保釈金のうちの10パーセントにあたる1万2000ドルだけを支払い、その日のうちに釈放された。凶器=物的証拠のナイフはついに発見されなかった。

 同年8月8日に予定されていた初公判は9月に延期され、その後も11月、12月と先送りされた。翌1989年1月23日にようやくはじまった裁判では、第一級殺人罪が業務上過失致死に軽減されたうえ、弁護側が主張する正当防衛――マリファナを吸って酩酊状態にあったブロディから暴行を受けたと証言――が認められ、ゴンザレスはスピード結審で無罪となった。

 検察側の証人として裁判で証言台に立つはずだったアメリカ人レスラーたちは、だれひとりとして公判には出廷しなかった。事件の真相は闇から闇へと葬り去られた。

 事件の翌日、警察の事情聴取に応じたマンテルは、公判での証言を申し出ていたが、アラバマ州バーミングハムのマンテルの自宅にサンファンの検察からの出廷通知書が郵送されてきたのは、なぜか公判の翌日の1月24日だった。

 あの日、ブロディと行動をともにしていたマンテルとアトラスが事件の詳細について語りはじめ、難解なパズルのかけらのようなコメントの数かずが“ネット活字”に変換されたのは1990年代の終わりごろになってからだった。

 “刺殺犯”ゴンザレスは数年後、WWCを退団してライバル団体IWAプエルトリコに移籍。その後、2006年に引退し、2012年には新団体WWL(ワールド・レスリング・リーグ)設立にも参画した。

 2014年、ゴンザレスの自宅が放火されるという事件があったが、“ブロディ殺人事件”との関連については不明とされる。

 1990年代にプエルトリコと日本を往復しながらプロモーター、団体プロデューサーとして手腕を発揮し、日本ではFMW、W☆ING、IWAジャパンといったインディペンデント団体の立ち上げと日本人レスラーの育成に深くかかわったキニョネスは、2006年4月、46歳の若さで死去した。

 71歳になったブロディはイメージしにくい。おそらく、親友ハンセンがそうであったように、21世紀がはじまるまえにみずからリングを降りることを選択していたのではないだろうか。しかし、どんなふうにして観客のまえから去っていったかは、これもまたイメージしにくい。

 1988年は“昭和63年”。昭和のスーパースター、ブロディは平成のジャパンを目撃することなく突然、天国へ旅立ってしまった。享年42。あれから29年という長い時間が経過している――。

※文中敬称略

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

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この記事のみんなのコメント

3
  • 殺人犯して保釈金で無罪かよブロディも浮かばれんな

  • ブロディモドキのレスラーがいるぐらい、個性的で、好きなレスラーだった。残念な事件だったなぁ~

  • トリトン

    7/17 9:21

    ブロデイは堅物というより自分の信念が強いので、結構軋轢を起こしてるよねもう少しアバウトだったら死なずにすんだのにね。スタイルは猪木風で相手の見せ場を作ったり手を抜いた試合をすると痛め付けたりとかまだ若かったのかも知れないね。個人的には好きなスタイルではなかったけど。

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